お国はどちら?
日曜日のお昼過ぎ、私は静岡にいた。静岡駅から少し離れた場所で用事を済ましたのち、バスに乗ってまた違う用事へと向かった。
人通りの少ない道でバスを待っていた。バス停は背丈よりも少し高い程度の、先端部に円形でバス停名、胴体部に長方形で時刻表の板が貼り付けてあるだけの可能な限り簡素なものだった。もちろん、バスを待っているのも私ひとりだった。
だから予定時刻から少し遅れてバスが到着した時に、ガラガラのバスを想像していた私は、立っている人こそいなかったものの、優先席まで含めてほぼ満席だったことにとても驚いた。入り口付近の一席だけが空いていたので、そこに腰掛けた。
次のバス停でお年を召した女性が乗車した。70〜80歳くらいだろうか。元気そうではあるものの、顔に刻まれた皺は深く、腰も幾分曲がっていた。空いている席はなさそうだったので、入り口付近に座っていた私は自分の席を譲った。女性は「いいんですか?」と口にしたが、「すぐ降りますので」と返した。実際に私が降りる停留所まではそう長くなかった。
バスが走り出してしばらくして、座席についた手すりを握っている私の手に何かが触れるのを感じた。先ほどの女性が、私の手を軽く叩いていた。
「お国はどちら?」
彼女は私に、こう尋ねた。
伸びに伸びたヒゲに色の濃い変わった形のサングラスのせいだろう、彼女は私を外国人だと思ったらしい。その直前に“流暢な”日本語で会話をしたにも関わらず、だ。
「に…日本人です」
私は小声でそう返した。
その刹那、私はなんだかひどく悪いことをしたような気がした。そこには筋道だった理由があるわけではないのだが、私はその時、外国人でなければならないような気分にさえなったのだ。
彼女が見せた純粋な瞳がそうさせたのかもしれない。ただ単に席を譲ってもらった義理で話しかけた感じではなさそうだった。そこには知的好奇心すら垣間見えた。
「あ、でもね、フランス生活が長いんです」
私は咄嗟に、そう付け加えた。「フランス人です」という嘘はさすがにどうかと思われたので、この風貌は、日本のみではなく、フランステイストが混ざっているんですよ…というニュアンスを私は出そうとしたのだろう。嘘をつかずに、最大限外国の雰囲気が私の中に混ざっていることを伝えようとしたのだ。実際に一応フランスには6年間住んでいたし、今でも行ったり来たりの二拠点生活をしているので嘘ではない。尤も、正面から見ると首が隠れるくらいまで伸びた私の髭から彼女が想像したのは、きっとインドや中東の方の国だろうが…
「へぇ、フランス!」
彼女の顔がパッと明るくなった。きっと彼女には思いがけない国だっただろう。彼女がイメージしているフランスからは私の風貌はかけ離れていたはずだ。
「そう、フランスです。日本とフランスの両方で生活しています」
「ふたつお家があるのね。いいわねぇ。生まれはフランス?」
「生まれは、日本です…」
彼女の中では、私は半分フランス人になってしまったようだ。まぁ、それならそれで結構。私は半分フランス人…そういうことにしておこう。
私が半分フランス人になったちょうどその頃、降りるバス停に到着した。
「それでは、私はここで降りるので」
「ありがとうね、楽しい一日をね」
バッチリなタイミングだった。私はそれ以上質問が飛んできたらどうしようか、とちょうど思い始めていた頃だった。
バスを降りて次の目的地まで歩いて向かう私は、彼女との会話を反芻していた。ギリギリ嘘はついていない一方で、私は確実に彼女を“勘違い”させてしまった。
ただ、そうだとしても、罪悪感はほとんど抱かなかった。ほんのちょっぴりの恥ずかしさと、いいことをした後の清涼感を胸に、私はよく晴れた春の昼下がりの知らない通りを進んでいった。木々にはまだ桜が残っていた。
これでよかったのだ、私はきっと、正しいことをしたのだ…そう思った。
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