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当たり前ではない祖父母の存在

先日、祖父が亡くなった。今年に入って祖父母の葬儀は2回目になった。
1回目同様今までの思い出が鮮明に甦る。はずが大した思い出が出てこない。
胸の奥に何かに掴まれるような感覚はない。
隣で崩れ落ちる母を横目に恥ずかしい気持ちになった。

昔から祖父は威厳ある方だった。笑顔はほとんど見たことがない。私と祖父の間に楽しい思い出がないのだ。

ふと周りを見渡す。
多くの人が生前の祖父について語る。
「素晴らしい教育者だった」、「あんなに面倒見の良い人はいない」、「恩人でした」あげればキリがないほどの感謝の声が場内にこだます。
私は祖父の「私」の側面でしか知らず、「公」を見知らなかったのだ。
それもそのはず、私が物心ついた時、祖父はすでに65を超えていたのだから。

ここで1つの気づきが生まれる。

祖父母とは当たり前の存在でないこと

もし、祖父母が海外に住んでいたら、島民であったら、母を40過ぎて産んでいたら…
きっと私は祖父の「私」の部分すら知ることがなかっただろうと。

偶然、私は祖父の職を知り、好きなことを知っている。
少なからず祖父の影響を受けて「教育」という道を選んだ。
「思い出」は少ないが「影響」は大きい。

結論、感謝している。
このことに気づけた今、祖父の見え方が変わった。

ありがとう

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