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好きな本すら選べない

昔から苦手だったことがある。読書だ。
具体的に何が苦手かと言うと、字を読むのが遅かった。目では文字を認識しているし、眼球は次の文字を追っているのだけどどうも内容が頭に入ってこない。

わかってる。人間誰でも得意不得意があるのは知っている。
僕にだって得意な事はある。例えば・・・うん。
具体的に今すぐ挙げろと言われてもすぐ出てこないのが僕の可愛いところだ。

そもそも読書を始めた理由ってなんだったんだろうと考える。特別絵本が好きな子でも無かったけど、唯一思い出せるのが学生時代の朝読書かな。

朝、まだ起きていない脳みそを無理やり学校まで運び、机に突っ伏す。
誰も俺に触れるなと言わんばかりの濁った空気感。
僕は”そういうタイプ”の男子だった。

記憶が曖昧だが中学も高校も朝読書の時間はあって、幼少期と変わらず特に本に思い入れもない僕は無理やり本を読んでいるフリをしていたと思う。読んでいたのだが、”興味があって読んでいる”訳では無かった。
分厚い本を持っていると”こいつちゃんと読書している感”があっていいなくらいしか思ってなかったかもしれない。
上記の通り全然内容なんか頭に入ってない僕は最後の数ページに目を通す頃には最初の方に何があったなんかなんてもちろん忘れている。

読書は知らない世界への旅なんてよく言うが、その頃の僕の読書は旅なんて華やかなものではなく、色の無い作業そのものだった。
中高長い6年間の中で”あの本面白かったな”と思い出せるのは、石田衣良のフォーティーンとシックスティーンだけ。

そんな僕が、昨今は情熱の殆どを読書に向けている。すごい進化だ。
もちろん読書をしているのがすごいとか偉いとかじゃない。自分で自分に驚いている、ただそれだけなんだけど。
だってTwitterとかSNSだって同じ文章なのにすらすら読める。でも本は違う。それがずっと不思議だったのだ。母は僕の正反対で、信じられないくらい読むのが早い。それも僕の不安を加速させていた。

つい最近だって本を7冊もポチってしまった。メンタリストのDaigoさんの家庭は”本にならいくら使ってもいい”という方針だったというのを昔耳にしたので、「なら僕も大丈夫だろう」と勝手に自分と結びつけてどんどん買っている。あぁ人間って怖い。全く関係なさそうなものに繋がりをこじつけることができてしまうんだもの。

それで最近気がついたのは、今までの僕は”本の選び方が下手だった”んだということ。
中高生の僕はたくさん本を読んでいた訳ではないので、自分がどういうジャンルが好きかはっきりと把握しておらず、ただ”それっぽい”とかいう意味のない理由で本を選んでいたが、今は違う。

もちろんこの世の全ての本を読破した訳ではないので確定はできないが、なんとなく自分の好きなジャンルくらいはわかってきた。
読書の休憩時間に次に読もうとしている本の冒頭だけ読んで、それが自分のツボすぎて変な声を夜の僕以外全員お年を召した方しか住んでいないアパートで一人で上げてしまうくらいには選ぶ能力はついてきている。
(ちなみにその本は穂村弘さんの”世界音痴”です。)

何年か前、「自分の食べたい物も自分でわからない奴は終わってる」なんて聞いた時にはその語気の強さと言葉の重さに固まってしまったが、本も同じかもしれない。自分のことなんだから。
たまにそれもできない時は脳が疲れてるんだ。きっと。

読めないくせに読もうとする気合いだけはあった僕を褒めてあげたい。
おかげで今、読書を心から楽しめているのだから。

そんな僕は今日の昼ごはんをすき家か松屋かフライ定食のどれにするかで長いこと悩んでいた。
人は贅沢な悩みを持てる生き物なんだなぁ。


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