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ずっと一緒に行こうな

※今回読んだ「銀河鉄道の夜」は1990年初版の集英社文庫版です。

「銀河鉄道の夜」を含む数作を収録した文庫を、私はずいぶん前から所有していた。
もちろん、いつか読もうと思って。
しかし、そう思い続けてもう恐らく10年以上が過ぎてしまった。


子供が生まれてからめっきり本を読まなくなった。
正確に言うと集中して読書する時間が取れなくなったのと、時間が多少あっても音やら周りの状況やらが脳みそにどストレートに入ってきて、読んでる内容がちっとも頭に入ってこなくなる体質になり本を「読めなくなった」のだ。(詳しくはこちらの記事を時間のある方はどうぞ)

それに私は宮沢賢治を始めとする、近代文学に造詣が深くない。というか全くと言っていいほど知らない。

そう、私は宮沢賢治をまともに読んだことがなかった。
「注文の多い料理店」ぐらいは知っていたけどちゃんと読んだことがあるわけじゃない。
今回「銀河鉄道の夜」を読むにあたって解説を先に読んでいて初めて、それも宮沢賢治だったのだと知ったぐらい、本当に何も知らなかった。

だから、家にあってもなかなか手が伸びなかった。
とっつきにく過ぎて、構えてしまって、読む気になれなかったのだ。

ではなぜ、本を買って持っていたのか。
それは、「銀河鉄道の夜」を読むことでもっとよくわかるんじゃないかと思った「あるもの」があったからだ。
それについては後述するが、ヒントだけ。

「常盤(ときわ)と金村」

これだけで分かった人は、
ふふふ、お仲間ですね。(ニヤリ)


さて、買ったはいいものの、なかなか手が伸びず幾年月。
「いつでも読める」状態は時としてそれを置物化させてしまう。
まあ積読ってやつですね。


だから今回キナリ読書フェスの課題図書に本作があるのを見た時、キタコレと思いましたよね。
もう読むのは今しかないと。

むしろこの日のために私はこの本を読まなかったのではないかと運命すら感じずにはいられなかった。そんなわけないか。


兎にも角にもきっかけをくれたキナリ読書フェス、ありがとう。

で、読んでみたわけです。

第一印象、というか読んでみて感じたこと。

「わかり辛え!!!!」

宮沢賢治独特のものなのか、近代文学全般がそうなのかは詳しくないのでわからないけど、そもそも句読点の使い方や言葉遣いが違うわけ。

所々巻末の注釈を引かなきゃならないし、「いつか」が「いつの間にか」と同じ使い方だと気付くのに時間がかかったり(辞書を引くとその用法も載っていたけど、今はあまり使いませんよね…)、句読点に至っては所々こんな感じ。

それはだんだん数を増してきてもういまは列のように崖と線路との間にならび思わずジョバンニが窓から顔を引っ込めて向こう側の窓を見ましたときは美しいそらの野原の地平線のはてまでその大きなとうもろこしの木がほとんどいちめんに植えられてさやさや風にゆらぎその立派なちぢれた葉のさきからはまるでひるの間にいっぱい日光を吸った金剛石のように露がいっぱいについて赤や緑やきらきら燃えて光っているのでした。

読点使って!!!!!!(涙)

読んでるこっちが息切れそうだったよ。ぜえ。


連休中で家族が全員いる中、短編とはいえ(自分にとって)わかりにくい文体の小説を音や家事や家族の邪魔で中断されながら、時にページを行ったり来たりしつつ自分の心に入れていくのは正直苦痛な瞬間すらあった。
いや読むのが苦痛なんじゃない。自分のペースで読めないのが苦痛なのだ。
入り込んでいる世界から現実に戻されるどころか、その世界に入り込む途中で戻されるんだから。
ノイズキャンセリングイヤホンを耳に突っ込んで(何も流さず)、なんとか読み進めましたとも。


で、まあ短編なので、夜までにはなんとか読み終わりまして、感想文を書きながら並行して2周目を読むことに。

そこで初めて、世界が目の前に広がってきた気がした。
そして、もっとよく知りたかった「あるもの」との関係をやっとじっくり考えることができるようになってきたのだった。


私が「銀河鉄道の夜」を買おうと思ったきっかけは、これ。

ラーメンズ第16回公演「TEXT」(2007年)から
「銀河鉄道の夜のような夜」

もうタイトルからして、だからね。

ラーメンズが大好きだった私はしかし文学には明るくなく、「銀河鉄道の夜」について知ってることはほとんどなかったので、むしろこのコントを通じて「銀河鉄道の夜」を想像するしかなかった。


※(以下、小説の内容及びラーメンズのコントの内容に触れますので、未読未見でネタバレ回避したい方はブラウザを閉じて下さいまし。また、ラーメンズのコントに関しては散々考察され尽くしてるはずですが、私はそういう類のものをほとんど見ていないので、何を今更を思われたとしたらお詫びを申し訳ございません。生暖かく見守ってください。)


常盤(ときわ)と金村。

このコントに出てくる2人の名前。
金村は語感からそのままカムパネルラ。
そして常盤は「じょうばん」と読めるのでジョバンニ、というわけだ。

考察等はほとんど読まなかったので、小説との繋がりで知っていることといえばこの名前くらい。
後はコントの中に散りばめられた状況やワードからふんわり理解していた程度で、だからいつかちゃんと小説を読んでみたいと思っていたのだ。


読んでみて分かったこと。
「銀河鉄道の夜」(以下「原作」)とコント(以下「ラー版」)では、汽車内での状況が違うということだった。

最終的にカムパネルラ及び金村が死んでいると思われる部分は同じ。

だが、原作では鉄道の場面でカムパネルラとジョバンニは会話をし同じ景色を見、行動を共にしているのに対し、ラー版では最初2人は会話しているように見えるものの、会話が成立してると思ったのは金村の思い込みで、実は常盤は独り言を言っていて金村はそこに存在していなかったのだということがわかる。

それから、原作では汽車での場面は美しく非現実的ですらある情景描写と唐突な設定が出てくるのに対し、ラー版ではそう言うものは皆無である。

ジョバンニが銀河鉄道に乗っている描写は、「夢か〜〜〜い!チャンチャン♪」であり、常盤が乗っているのは、「銀河」鉄道ではなく普通の鉄道なのだ。

それから、原作ではジョバンニが

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう」
「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」

と言うのだけど、ラー版でこれを言うのは金村の方なのである。

ずっと一緒に行こうな。

これには麺食らった。じゃなかった面食らった。(ラーメンズだけに)

これをどう解釈すればいいのだ。
真逆じゃないか。

コントは単に原作のキーワードや似た設定でアレンジし、コントたる所以である言葉遊びや笑いの要素を散りばめただけの、原作とは無関係の創作物と考えるべきなのだろうか?
そもそもタイトルも「銀河鉄道の夜『のような』夜」である。
読み解く必要なんてないんだろうか?


原作では、「本当の幸せとは何か」という問いかけが何度か出てくる。

「いったいどんなことが、おっかさんの幸なんだろう。」(カムパネルラ)
「なにがしあわせかわからないです。」(ジョバンニ)
「けれどもほんとうのさいわいはいったい何だろう。」ジョバンニがいいました。
「ぼくわからない。」カムパネルラがぼんやりいいました。

だがラー版ではそういうテーマは見つけられない。

それに、ラー版の金村とカムパネルラでは性格も違って見えるし、原作のような、ジョバンニがザネリや他の同級生たちにからかわれ、それをカムパネルラが気の毒そうに見ていたり、忙しく疲れているせいで以前のようにカムパネルラとつるんだりできないことをジョバンニが寂しく思うような描写もない。
というか常盤と金村(と常盤の母親)以外は出てこない。

「銀河鉄道の夜っぽい」だけの物語なのかなあ。とも思えた。


だが、ラー版の金村はこう言う。

お前の切符、俺のと違うな。乗る汽車間違えたんじゃないのか?

そう、原作でもカムパネルラとジョバンニは違う切符を持っている。
そして最終的にカムパネルラは、彼のお母さんがいるという天上を指しそのままいなくなり、それが見えなかったジョバンニは夢から覚めて元の世界へ戻ってしまった。

しかし、まさかお前もこの汽車に乗ってくるとはなあ。

同じ汽車に乗っていると金村は思っていたが、実際には常盤には金村が見えていなかった。

あ…俺ほんとはここにいないわ…。

ラー版では、最後まで常盤が金村の死に気付く描写はないが、代わりに金村自身が自分の死に気付くことになる。

全て逆だ。


そう思ったとき、ああ、これはカムパネルラ(金村)とジョバンニ(常盤)の関係を、カムパネルラ側から見た、カムパネルラの気持ちを表した物語なのかもと思ったのだ。

そう思った途端、なんだか今までふわふわしてたものが一気に腑に落ちた気がして、そして同時になんだか泣きたくなったのだ。

原作ではジョバンニの気持ちは出てくるが、カムパネルラがジョバンニをどう思っているのかはハッキリしない。
カムパネルラのセリフのほとんどはあくまで「ジョバンニが見た夢に出てくるカムパネルラ」でしかない。
かつて仲が良かったことや、今は少し距離が開いているもののカムパネルラはジョバンニを常に気遣っているのだろうということはわかるが、大きな感情の動きを見せるのはジョバンニの方ばかり。

 ジョバンニは活版印刷所の仕事もあり忙しく疲れていて、カムパネルラもあまり話さなくなっていた。
ジョバンニを気にはかけているけど、ジョバンニをからかうような他の子達ともうまく付き合えていた彼は、本当はもっとジョバンニとも話をしたり遊んだりしたかったのではないだろうか。

ずっと一緒に行こうな。

カムパネルラも、ジョバンニにそう言いたかったのではないか。

またあの頃のように。
カムパネルラの父親である博士の本を目をきらきらさせて一緒に読んで、アルコールランプで走る汽車の模型で遊んでいた、昔のように。


ラー版のコントは原作とは全てにおいては整合性は取れない。
汽車より前のシーンで出てくる

そっか。スコールか。それで俺の上着はびしょびしょなのか。

というセリフは、川に落ちたカムパネルラを想起させるけど、このシーンですでにカムパネルラは死んでいるとはいえないだろうし、ここでのやり取りは言葉遊びに全振りしているのでおそらく生死や夢か現実かについて語るのはあまり意味を成さない気がする。
まるで悪魔か何かのようなお母さん(の声)とジョバンニのやり取りとかも意味不明だしw
あくまでコントですからね。

でも最後の汽車のシーン。
どこか胸が詰まるような、そんな雰囲気を持って終わるこの汽車の場面を描いた意味は、
「ジョバンニと同じように思っていたカムパネルラの気持ちを描きたかった」
のではないかとそう私には思えたのだ。

幸せとは何かを問う、小説版でいちばん注目されているであろうテーマを捨ててでも。


私の解釈が合っているかどうかはわからない。
というか、そんなの正解はないと思う。
ラーメンズのコントの脚本を書いている小林賢太郎さん(コントの中の常盤)は、いつも観る人に自分で補完してもらえるよう余白を設けていると言っている。
原作版だって、宮沢賢治が残したそれは何度も改稿を繰り返し未完なのである。

そこから何を読み取るかは我々読者次第だし、それでいい。


キナリ読書フェスを通じて初めてきちんと「銀河鉄道の夜」を読み、それによって今まで見ていたラーメンズの「銀河鉄道の夜のような夜」に違う見え方が現れたことは、私にとってすごく新鮮な体験だった。

これを書くにあたって何度も原作とラー版を行ったり来たりして、それに伴ってラー版の新たな面(というかこうではないか?と思ったこと)に気付いたのはもちろんのこと、原作の方の世界がより煌めき、より彩りを増し、広がっていくのを感じた気がする。

最初、

「わかり辛え!」

と思ったその不思議な世界観が、徐々に私の中でそれが当たり前であるかのように形をなしていく感覚があったのだ。

こういう楽しみ方も経験も私はしたことがなかった。

キナリ読書フェスがなければ、私は原作をまだ何年も読まなかったかもしれない。

ありがとうキナリ読書フェス!
ありがとう岸田さん!!


この辺で今回の感想文を締めたいと思います。
「ほんとうの幸せとは」という問いかけや、銀河鉄道から見える美しい景色や人々事象その意味や、大切な友人を失ったジョバンニの悲しい心など、語ってみたいことはたくさんあったけど、文字数が膨大になるし何より時間がないww


ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
文学音痴の拙い感想…というかほとんどラーメンズの話ですけど、「まあええんちゃう?」と思っていただけたなら嬉しいです。

原作、2周目結局時間がなくて読み終えられなかったので、この後読みたいと思います。
あと宮沢賢治の他の作品もこれを機に読んでみたい。
私の知らない世界がまだまだたくさんある。
そう実感しました。
読書、また、少しずつしていきたい。
ノイズキャンセリングイヤホン必須ですけど!!!



ひとつだけ余談を。

ラー版「銀河鉄道の夜のような夜」は、活版印刷、牛乳、お祭り、烏瓜、化石の発掘、といった原作のキーワードがいくつか散りばめられています。
原作を読んだことのある方は「あっ」となるそんなワードを、うまく作品の中に、時に笑いと絡めながら混ぜ込んであるので、まだ見たことがない方はその妙を是非楽しんでいただけたらなと思います。

また、このコントに出てくる他のいくつかのキーワードは、このコントが含まれる 「TEXT」の他の演目から持ってきていて、これまたうまくこのお話と絡めてあるので、興味を持たれた方は是非公演の演目全てを観て、公演の締めに持ってこられたこの「銀河鉄道の夜のような夜」を味わってみられると、面白いのではないかと思います。
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