人を救う材料
人が面白い。
最近そう思うようになった。もっと前から興味はあったのかもしれない。
大人になってからも本を読むようになり、手当たり次第にジャンル問わず色んな本を読むのだけれど、どうも面白くない。
世間でよく言われる教養書やビジネス書にも「おぉ!」みたいな気付きや発見みたいな瞬間はあるけど、何かが足りない。もっと違う何かが欲しいと思った。
きっかけは、前に投稿した近内悠太さんの「世界は贈与でできている」を読み、ひどく贈与というキーワードに惹かれたこと。
もっと贈与のことが知りたい、理解したいと追いかけていくうちにここまで来た。「贈与」は掘れば掘るほど色んな景色を見せてくれる。
人類学として初めて手にした本は松村圭一郎さん著の「うしろめたさの人類学」だった。どうせ読むなら入り口は入りやすい方がイイと思い、専門用語が少なめなこの本にした。
内容は松村さん自身が人類学のフィールドワーク(調査みたいなもの)を行うため、エチオピアに滞在した記録と自身が考える「人類学とはどういうものか」を同時並行で進めていく構成になっている。
本の冒頭から終わりまで答えのない問題を一緒に考えているようで、人類学のことを全く分からなかったボクにもとても身近な存在に感じられた。
今になって考えると変な感じがする。自分自身も人なのに「人」を対象にして研究しているのだから。答えはすぐそこにあるのに、答えはいつまでも見つからず辿り着けないままでいる。
でも、その同じ場所をぐるぐる回っているような感じが楽しくて飽きない。
私とあなた
つまるところ人類学は主観と客観を行き来するようなもの、私とあなたの間を行き来するものに近い、と言えるかもしれない。
村松さんは実際に何千キロも離れた土地に足を運んで、現地の人たちと何ヶ月も寝泊まりをして、同じ食卓を囲んだ。
それで何かが分かればいいが、問題はエチオピアにはない。いつも「そこ」にある何かだ。
村松さんはボクたちが家族や友人、職場の人でさえ分かり合えないちょっとしたズレや摩擦に似た何かを追い続けている。
後半で村松さんがこう綴っている
同じ身体で同じ場所にいても、同じ世界を生きているわけではない。世界の観方が変われば、生きている世界が変わる。いま思えば、あの「放心状態」は、そんな経験だったのかもしれない。
ひたすらに「人」を研究している人でさえこんなふうに思うんだ。それぐらい「人」というもに憧れてしまうのかもしれない。
完全に埋まることのないものばかりで出来上がっていると、どうしても「完全」とか「公平」だったり、キレイなものばかりに目を向けてしまいがちになる。
もっと、「不完全」だったり「不公平」のことを考えてあげられないといけない。
ボクの人類学の一歩目はこんなところからスタートした。
励みになります🙏