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不安定で、安定。

ここ最近で大きく変化した定義がある。

近内悠太さん著の「世界は贈与でできている」がそのきっかけだ。

この本はタイトルから言い切っている部分も勢いがあってイイ、好きだ。

当初は贈与なんて聞き慣れない言葉だったから、書店で見つけた時は訳もわからずジャケ買いをした記憶がある。

なんとなくで購入した本だったけれど、今では自分の一部になった大切な一冊だ。

贈与

ここで少しタイトルにもある贈与という言葉について触れたい。

辞書で贈与について調べると

贈与
1 金品を人に贈ること。「現金を贈与する」
2 当事者の一方が自己の財産を無償で相手方に与える意思を表示し、相手方が受諾することによって成立する契約。

出典:デジタル大辞泉

と書かれている。

結局のところ「与える」ことと何ら変わりはない、当時のボクはそう思っていた。だが、著者の近内さんの主張・見解を知ることでタイトル通りにボクの世界の見え方が変わった。

何気ない日常に潜む当たり前、人との関わり合い方、行動や振る舞い、ありとあらゆる当たり前を覆す。表現としては、答えを提示してくれるというより、一つ目を増やしてくれた、に近い。

ただ、そう簡単に贈与はボクをそう易々と扉の内側に招いてはくれなかった。

著者の近内さんはとても分かりやすく解説してくれたが、贈与自体を理解することは文字通り、骨を折る作業になる。読めば読むほど難解で、追いかければ追いかけるほど離れていく、なんだかとても贈与が卑しい存在に思えてきて、途中で挫折しそうにもなった。

それもそうだ、普段ボクたちが生活している資本主義という盤上の上には適していない存在だからだ。

著書の中にもこうある

 「親の愛」に端的に見られるように、贈与は市場における「金銭的交換」とはまったく異なる性質を持っています。簡単にいうと、市場での交換は「さっぱり」しているのです。それは等価交換が1ターンで瞬時に終わるからです。
そして、交換は誰とでもできます。というよりも、相手が誰であってもいいのです。対価さえちゃんと払えるのならば。

p33

贈与は普段、なにげなく日常生活を送る中で見えていなかったモノたちをありありと写し出してくれる。そういう装置だと今のところボクは理解している。

扱いにくい装置、それが贈与。

贈与の先駆者、クルミドコーヒー

それでも、そんな道具を使って実践している人がいる。東京の西国分寺駅でクルミドコーヒーを経営している影山千明さんだ。

彼は東京大学法学部出身でその後、マッキンゼー&カンパニーに就職します。でも、もっと「お客さん」とより近い存在になりたいとカフェを開くことになります。「世界は贈与でできている」の中でも近内さんがクルミドコーヒーについて語られ、お店のシステム自体が贈与のモデルの一つとして扱われています。

そして、影山さんは自身の著書「ゆっくり、いそげ」でこのように語っています。

 自分たちが本当にいい仕事をできていれば、受け手にとっての価値を実現できていれば、それは受け手の中に「健全な負債感」を生む。そしてそれに応えよう、応えなければいけないという気持ちが、直接・間接に贈り手に利益をもたらす。
第7章「時間」は敵か、それとも味方か.P234

ほんの一部ですが、贈与を表現する言葉として、とても似合う言葉だとボクは思います。

実生活で贈与を実践することすら難しいのに、お店を利用して贈与のモデルとなる影山さんの姿勢に頭が上がりません。

利益を優先せずにまずは目の前にいるお客さんと真摯に向き合う。このたった一つの当たり前のようなことが、ボクたちにはできない。というか、やろうとしない。

「どうするか?」それが問題だ。

それは当たり前のことなのかもしれない。すでに生まれてきた瞬間から働くことを当たり前とされ、資本主義という土台の上に置かれる。そして、階級社会の上をベルトコンベヤーと同じように学校や会社といった組織で括られる。

組織から一歩でも外れると途端に「世界」が牙をむき、ココではないどこかに居場所を求める人を餌にする。

ボクは誰なんだ、ココはどこなんだ。
ボク自身も同じ経験がある、特に会社だ。

自分自身と社会の折り目をちょうどまたぐ場所に位置する所が会社だと思い、業種関係なく、様々な会社を渡り歩いた。しかし、そこに居場所はないと気づいた。

会社にはそこの会社の世界がある。ボクを必要としない。”あなた”である理由を述べよ、というだけで、”あなた”である必要はないと、無言の何かが語り掛けてくる。

社会がボクを必要としたからボクをこの世界に呼んだんじゃないか。そもそもの話が違う。これはわがままではない。

きっと贈与が必要とされていない理由もそこにあるのではないか、ボクは思う。

人を目的とし、手段としか扱わない存在としてみている。それが社会だとするなら、もはやそれは社会ではない。偶然にも「社会」と「会社」、字が入れ替わっただけだ。所詮その程度だ。

ならば社会を辞めればいい、会社を辞めればいい、ボクたちは自由だ。

その一つ、人として在るために贈与が機能する。

”あなた”=”わたし”&”わたし”=”あなた

この方程式が通用するのは贈与だけ。交換の定義に乗っ取った資本主義の上では成立しない。

だからボクは贈与を必要とする。なぜなら、”ボク”であるために”あなた”がひつようだから。

ここまで贈与とその辺のことについて語ったけれど、結局のところ贈与についてここでは語り切れない部分が山ほどある。

ただ、見つけようと思えば贈与はそこに必ず存在するし、現れる。

この投稿をここまで読んでくださったあなたなら、きっと入り口は開かれる。ボクはそう信じています。


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