家族のカタチ
夏といえばジブリ、と言われるぐらいに夏の代名詞になったスタジオジブリ作品。
どの作品も大好きだし、歳を重ねるたびに観る視点が変わって、新しい価値観が見えてくる。
どの作品が好きかでコミニュケーションができる。
どんな場面にも必ずそこにいる存在、それがジブリ。
そのジブリ作品の中でも「ハウルの動く城」にはいつも感じるものがある。
物語の設定は魔法使いが存在している世界。そこで一人の少女ソフィーと周りを彩る仲間たちで物語は進む。
当時、初めて見た時は小学生だった。昔から魔女の宅急便が好きで、ヨーロッパ風の街並みや魔法使いの存在でテンションが上がった。
ソフィーが歳をとったお婆ちゃんになっても、もともと気弱なハウルはいつも駆けつける。どこかお決まりのストーリーっぽい場面に男子ながらときめくものを感じていた。
それも今になって見る箇所が変わった。
一点だけではなく、全体をなんとなくボンヤリと、点と点を結ぶような感覚で物語に隠れたメッセージを読み取る見方を覚えた。
ソフィーとハウルの愛情いっぱいな作品以上に、もっと他のキャラクターにも目を向けてみた。
荒地の魔女、カルシファー、マルクル、カブ、見渡せば物語の終盤にはソフィーとハウルの周りは賑やかになっていた。
物語の頭からソフィーがいきなりトラブルに巻き込まれて始まり、最後の最後まで何かとドタバタして一件落着。
そんなドタバタ劇の途中でハウルが楽しげに言った。観ているボクらの気持ちを代弁するかのようだった。
「我が家族は、ややこしい者ばかりだな」
その一言が今でも頭の中で掘り起こされ、特に“家族”というワードを聞くと敏感に反応する。
ハウルがごく自然に、なんの迷いもなく、当たり前のようにあのシーンで「家族」と呼んでしまってから、ボクの中でも“家族”の定義が揺らぎ続けている。
それはボクの見方を変えてくれたし、同時に世界を広げてくれたプラスな瞬間。ただ、あまりに純粋無垢なハウルの何気ない一言に今でも追いつけない。
あの、血のつながりもない誰が母親で誰が父親をつとめるのかも分からないメンバー。あのメンバーを家族と定義してしまったら、果たして恋人はどう定義し、友達とはなんなのか、全ての人間関係を再定義しなければならなくなる。
そうか、言葉の定義を変えることは他の言葉の定義も変えることになるのか...。この時ひどく痛感した覚えがある。
最近の風潮によく見受けられるけれど、「〇〇を再定義しよう」「⬜︎⬜︎の再アップデート」みたいな書籍を思い出す。なんだか響きは良いように聞こえるが、中身を開けるとそうでもないことが多かったりする。
そうじゃない、そんな安易に言葉の定義を変えてしまったら、あの時ハウルたちが積み上げた関係はどこへ行ってしまうんだろう。そんなことも考えてしまう。
がんじがらめにしてきてしまった文化というものもあるけど、広げすぎて迷ってしまわないようにしたい。
いつか会うあなたにも届く言葉に留めておきたいから。
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