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『 17years 』 第3話 川崎フロンターレがJリーグを代表する常勝軍団になった最大の理由

今回は僕が2011年から2014年シーズンまで所属して、
本当に充実した期間を過ごさせてもらった
川崎フロンターレでの思い出話をします。
話したい話は本当に多くありますが、
厳選した話になりますので、ご了承ください。

『悩んだ末の移籍』


2010年シーズンを戦い終えた僕は、
当時所属していた横浜F・マリノスのメンバーと
シーズン終了後の慰労会で仲間達と
シーズンの疲れを労っていました。
高校を卒業してプロ入りから6年間が経ち、
憧れだったマリノスのユニフォームを着て、
多くの試合に出る事ができました。
そんな僕の頭の中には2つの考えがありました。

1つはこのまま同世代の仲間達,
頼れるベテランの先輩達,
可愛い後輩達とリーグタイトルを狙いにいく。
もう一つはまだ自分が経験したことがない経験をして、
自分の力を試してみたい。
その経験とは他チームへの「移籍」でした。
自分の事をほとんど知らない環境に飛び込んで、
0からスタメンを勝ち取って活躍して成長したい。
そんな気持ちがありました。

年末マリノス以外の2チームから
正式なオファーが届きました。
全てのオファーに魅力があった中で、
決断しないといけない期限の日の朝まで悩みました。

そこで自分が選んだのは同じ県内のライバル
川崎フロンターレへの移籍でした。

移籍初日、始めて麻生のグラウンドに
降り立った時、いよいよここから僕の新しい挑戦が始まる。
心がワクワクした事を覚えています。

今では立派なクラブハウス、スタジアムがある
川崎フロンターレですが、
僕が所属した4年間は
通称プレハブ小屋と言われたクラブハウスと
スタジアム改修のためにできた
仮設スタンドのあるスタジアムを
利用していた時期でしたので、
マリノス時代から比べると環境の違いに
驚いたのはいい思い出です。笑

練習着を洗濯してくれるおばちゃん達、
芝を管理してくれる湘南造園の方々、
そして優しいサポーターの皆様と
触れ合ったファンサービスエリアの坂道。
あの麻生グラウンドで皆さんと過ごした
アットホームな時間は今でもいい思い出です。

フロンターレに移籍した理由を
話したいと思います。
理由の一つやはりなんと言っても攻撃力です。
リーグでも屈指の攻撃力を誇るフロンターレで
自分の攻撃能力を成長させたい。
そして攻撃的なチームによくある問題の一つで
守備面でのバランスの悪さ。
その部分を修正するバランス能力を
評価してもらっていたので、
マリノスの堅守の文化の中で成長させてもらった
自分の経験をこの攻撃的なチームで試してみたい。
そんな考えがありました。

そしてもう一つの理由。

「おー来たかー。これからよろしくな!!!」

『14』


それまで対戦相手として
多くの選手と対峙してきましたが、
特に警戒レベルを最高に引き上げていた
選手がいました。

中村憲剛。(さん)

言わずと知れた川崎フロンターレの
顔でありバンディエラ。
フロンターレに入った理由の一つとして、
憲剛さんとプレーしてみたい。
これがありました。
おそらくヴィッセル神戸に移籍する選手が
イニエスタ選手とプレーしてみたい。
そんな感情になるのと一緒な感覚
だったのではないかと思います。
マリノス時代から対戦していて、
本当に背中に目がついているんじゃないかと
思うようなパスやゲームメイク能力に
尊敬の念がありました。
2010年に対戦した際に気さくに話しかけてもらい、
優しい印象もありました。

初めて麻生グラウンドで練習で会った日も
最初に声をかけてもらい、
緊張が一気にほぐれたのを覚えています。
憲剛さんはルーキーや新加入選手に対しての
アプローチがほんとに上手でよく考えてるなーと
思う事が多々ありました。
僕自身もベテランになってから
憲剛さんのような接し方を真似していました。

本当に多くの事を吸収させてもらった
大先輩であり、ピッチの中でも頼りになる仲間でした。
たまに憲剛さんが欠場する時は
「憲剛さんがいなくて、寂しいな。」と
思っていたのはここだけの秘密です。笑
憲剛さんと話したサッカー観の話は
また後ほど触れます。

『忘れる事のできない感覚』


移籍初年度となった2011年は相馬監督の元、
多くの若手が起用されましたが、
成績としてはいいものではありませんでした。
ただこの年に起用され始めた
小林悠選手や大島僚太選手らが
後のフロンターレを背負う事に
なった事を考えると、
意味のあった1年だったのではないかと思います。
特にリーグ戦で8連敗した後に
迎えたAWAY山形戦での勝利は
今でも覚えています。苦しかった。。笑
後にも先にもあれだけ勝てなかった時期はないので、
いい教訓として今でも活きています。



『風間八宏監督』


2012年。
第5節のFC東京戦にホームで
逆転負けを喫したチームは
新たな指揮官の招聘に動きました。
新聞やメディアでも色々な方の名前が
取り沙汰されましたが、
チームの決断は意外なものでした。
当時TVでの解説業と大学の監督を務めていた
風間八宏さんに白羽の矢を立てたのです。

「風間さんが来るらしい。大丈夫かね。
プロの監督とかできるのかな?」

こんな意見やざわつき、動揺が
チーム内を駆け巡っていました。
風間さんが来た初日のミーティング。
僕ら選手も何を言うんだろう?と
期待と不安が交錯していました。

「ボールを失わない」


攻撃は最大の防御。そんな言葉がある通り、
ボールを失わなければ守備をする必要がない。
そんな意図のミーティングをたった5分ほどで
終わらせた風間さんは、
グラウンドに出ろ!俺がサッカーを教えてやる。
そう言ったかは覚えていませんが、
そこからフロンターレのサッカーの土台となった
「止める蹴る」の練習が始まりました。

今までプロの自分達ができていると思っていた
そのボールを扱う基本動作が風間さんの目には
できていなかったのです。
あの憲剛さんですら、「それ止まってないよ。」と
言われた事に衝撃を受けました。
本当に毎日毎日、技術練習を繰り返しました。

プロチームというのは基本的には
曜日で練習の内容が変わります。
フィジカル、戦術、セットプレー、リカバリーなど
試合スケジュールを想定して考えた
トレーニングメニューが普通です。

ただ風間さんは違いました。
来る日も来る日もボールを使ったトレーニングに
時間を割き続けました。
ポゼッション(ボール保持率を高める練習)と
限られたエリアでの突破の練習、
小さいコートでの紅白戦を繰り返しました。
試合前日でもゴールが決まるまでは
練習を終わらせない徹底ぶりでした。
(試合はかなりきつかったです笑)

「90分間ボールを握り続けてゴールを奪って勝つ」

風間さんはこの哲学を選手に植え付けるために、
試合に勝っても負けても
自分のスタイルを変えませんでした。
結果が出ない時にメディアやサポーターから
監督交代を望む声もありました。
そんな声には一切揺らぐ事はありませんでした。
常に自分の目を信じていたように思います。
僕は風間さんのような指導者には
他に出会った事がありません。
圧倒的な自信と確固たる哲学を持った方でした。

個人的にはサイドバックとして
攻撃性も開花させてもらいました。
(2012年は4ゴール)、
ビルドアップの技術も飛躍的に向上しました。
 

・相手の矢印を見ろ
・ボールを受ける時に隠れるな
・ボールを止める時になんとなくスペースに流すな
・DFの選手が時間を使うと、
前線の選手が時間を使えなくなる
・サイドバックはチームの目になれ

これらの言葉の意味は
熱心に指導してもらいました。
チームがうまく機能するために、
DFの選手達は
安定したビルドアップと
チームを俯瞰できる目を要求されました。
毎日必死にこの言葉の意味を
考えて練習した結果、
監督の信頼を勝ち取る事ができ、
僕はほとんどの試合でピッチに
立たせてもらいました。

『憲剛さん不在時に巻いたキャプテンマーク』
※2013,2014年は副キャプテンを務めた

逆のサイドバックで一緒にピッチに立つ事が
多かった登里享平選手とは先日対談で
風間さんから学んだ話について語りました。
彼も非常に能力が伸びた選手の一人で、
今の川崎フロンターレには
欠かせない一人へと成長しました。
対談のリンクはこちらに貼っておきます。

↓↓↓
【THE FLICK】第2回 
登里享平(プロサッカー選手) ×
鶴目和孝(株式会社エレファントストーン 代表取締役CEO)


『THE FLICK』(現役アスリートと経営者/専門家による対談チャンネル)

https://youtu.be/JAAtO_lk_FQ


『2013年』


そんな風間さんの哲学が浸透して、
選手が自信をつけ出した2013年。
チームは今の川崎の土台である
パスワークを駆使した攻撃力で
リーグ戦を勝利し始めます。

特にこの年に加入した(大久保)嘉人さん、
(中村)憲剛さん、(小林)悠、レナト。
この4人が揃った時の得点力はかなりのもので、
自分が今までプレーしてきた中で最攻な4人でした。

特にこの4人を後ろから見ていて思ったのは、
すごくバランスがいいなという事でした。
悠の裏への抜け出し、レナトのドリブル、
嘉人さんの得点センス、
そしてそれを司る憲剛さんのゲームメイク。
常に得点の匂いがしました。
勝つ事は当たり前。
その上でどうやって相手を崩して得点を奪うか。
そんな会話が普通に出てきたのは
この頃だったと思います。
今の川崎フロンターレの
ロッカールームの中は知りませんが、
おそらく常勝軍団となった
今のフロンターレの土台の一つ
となったのは間違いないと思います。
それだけ選手もサッカーのスタイルに
手応えを感じていました。

この年は最終的に3位でフィニッシュして、
アジアチャンピオンズリーグへの
挑戦も決まり、充実したシーズンとなりました。

翌2014年は抱えていた怪我の影響もあり、
自分が思うようなプレーを
なかなかすることができなかったのですが、
在籍した4年間は本当に素晴らしい時間でした。
この先のサッカー人生は
前回書いたnote(豪州移籍編)に繋がっていくので、
こちらもリンクを貼っておきます。

↓↓↓


『サックスブルーの戦士達』


最後に川崎フロンターレの素晴らしさの一つである
一体感について話します。
 
シーズン最初に行う商店街の皆様への挨拶巡り、
多摩川の河川敷を綺麗にする
イベント「多摩川エコラシコ」、
大勢のサポーターの皆様の前で
レディーガガやきゃりーぱみゅぱみゅの
女装をして舞台の上で踊ったファン感謝デー、
東日本大震災の被災地へ
サポーターの皆さんと行った支援活動。

あげればキリがないほど、
多くの方々と触れ合うことができました。
そのすべての時間が僕の人生の大きな財産です。

そして最後に題名にもある
川崎フロンターレがJリーグを代表する
常勝軍団になった最大の理由

それはどんな時も諦めずに声を出し続けて、
勝っても負けても
拍手で迎えてくれる
サポーターの皆さんの存在だと思います。

きつい時や苦しい時スタンドを見れば、
いつもサックスブルーの戦士達がいました。
今までに起きた「等々力劇場」は
決して偶然ではなく、
必然で起こったものです。 

この先川崎フロンターレが
このアイデンティティーに誇りを持ち続け、
アジア、世界を代表するクラブ
になる事を祈っています。

長い文章を最後まで読んで頂き
ありがとうございました。


おまけ編として
風間さんや憲剛さんから
学んだ新たなサイドバック像と
ある先輩から学んだプロの姿。

2つエピソードを限定公開いたしますので、
興味をもっていただいた方
はもう少しだけ読んでください。笑 


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