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『 17 years 』  第1話 人生初の海外移籍(川崎フロンターレ→ウェスタンシドニーワンダラーズ)

先日リリースしました
『YUSUKE TANAKA MEMBERSHIP』
のコミュニティ内では現在の田中裕介のリアルな日常
をどんどん発信していきます。

そしてこのnoteでは不定期でプロサッカー選手生活の17年間を振り返り
トータル10本ほどのマガジンにして記録していきたいと思います。

過去在籍したクラブのサポーターの方にはぜひ読んでもらいたいですし
懐かしんでもらえたらなと思います。
特別な㊙︎話は一部有料記事(MEMBER SHIPには無料)にて公開していきます。

題して

『17 years』


第1話は
2015年1月に日本から飛び出して
豪州に活動の場を移した際の話をします。

2014年12月冬。
川崎フロンターレを退団した僕は代理人と共に移籍先を模索していました。
横浜Fマリノス、川崎フロンターレという
国内でも有数のビッククラブで
10年間プレーを終えた28歳のオフシーズンでした。

2014年はJ1リーグ200試合出場という記録を達成し、
副キャプテンも務めていた僕の心の中は充実感で満たされていました。
毎週末満員の観衆のスタジアムの中でプレーをして、
チーム内の立ち位置でも居心地が良く毎日が非常に充実していました。

2015年も川崎でプレーを続けたい気持ちがあった中で、
契約の席で言われた言葉は来季戦力として見ていないという言葉でした。
当時は強がっていたと思いますが、内心かなりショックを受けました。

なぜなら川崎での4年間は僕のサッカー人生で
一番輝けた4年間だったからです。
在籍した4年間で出場した試合出場時間数は
チームで1、2番目の長さでした。

靴が履けないほど足が腫れ上がっても、
股関節に抱えた慢性的な痛みで
ボールがまともに蹴れなくても
毎試合痛み止めを飲んでピッチに立ちました。

尊敬できる監督から信頼され、
大好きなサポーターの前で最高の仲間達と
プレーする時間が自分の人生の全てだと思っていたので、
簡単に休む事はしませんでした。

そのおかげで多くの幸せな時間を過ごす事ができましたが、
反面怪我の痛みの影響から年々プレーの思い切りやキレを
失ってきていたのは自分でも気がついていました。

そんな中で下されたチームの決断に
最初はショックを受けましたが、
時が経った今、川崎での素晴らしい時間には感謝しているので、
この場を借りて改めて川崎フロンターレの関係者の皆様には
プレーする場を与えてくれた事に感謝の意を示したいと思います。
ありがとうございました。
川崎時代の話はまた次回以降に振り返ります。

そんな揺れ動くオフシーズンの僕の心の中には2つの気持ちがありました。
一つ目は自分がそれまでプレーしたチーム以上の
やりがいを感じれる国内のチームが他にあるのか。
そして二つ目は小さい頃に描いた海外でプレーする
夢に挑戦するのは今じゃないのか。

毎年自主トレを行うハワイの砂浜で
夕陽を見ながら毎日考えました。
そんな中、日本にいる代理人から一本の電話が入りました。


『オーストラリアはどう?シドニーのチームが興味持ってくれてるよ。』

2014年にACLで対戦したウェスタンシドニーワンダラーズからの
連絡に一気に気持ちが傾きました。
2014年のACL王者になったワンダラーズが
2015年のACL連覇に向けて補強を進める中で
自分のJリーグでの経験値を高く評価してくれていました。

アジアチャンピオンのチームで
海外生活をしながらプレーする。
決断する事にそう時間はかかりませんでした。

ハワイから帰国した翌日スーツケースに
スパイクを3足と私服を詰め込んで
成田空港へ直行しました。
日本に車やマンションを置きっぱなしでいくしかなかったので、
両親にマンションの解約や車の手配などを手伝ってもらいました。

その時、自分の未来にあんなに心躍る事はそれまでありませんでした。
今まで誰かと海外に行く事はあったものの一人で海外へ。
そして旅行ではなく生活するという事を
想像した時にゾクゾクする自分がいました。

英語は英会話スクールで勉強していたものの、
やはり現地の人と話すのは訳が違います。
シドニーの空港に到着してチームのマネージャーからの
英語のメールを頼りに待ち合わせして対面してから
僕のシドニーでの海外生活は始まりました。


フェリーから見えるオペラハウス


『Hi! Nice to meet you!
I'm YUSUKE. Please call me YUSUKE!』


その日から日常の生活は全て英語で行う事になりました。
チームからのメール連絡、レストランでの注文、
監督からの指示、チームメイトの冗談。。
なにからなにまで英語。これがまた新鮮で楽しかった!

もちろん大変な事も山ほどありました。
現地でのマンションや携帯電話の契約、
トレーナーへ足首に巻くテーピングの巻き方の説明、
行きたいお店や欲しい商品、薬の検索。

日本では調べたら一発でわかる事や
誰かに頼れば解決する事も時間と労力がかかりました。
当たり前の事が当たり前じゃない事もたくさん経験しました。

日本ではグラウンドやジムも整備されていますし、
チームを取り巻くスタッフの数も多くいます。
日本ではスパイクやウェアの管理もスタッフに任せていましたが、
全て自分で管理して試合にも自分で全て持って移動しました。

ある日練習が終わり帰ろうとした時に、
ビブスを畳んでいた用具スタッフが
まだ畳み終わっていなかったのに、
定時ピッタリに家へ帰宅した姿を見て

「あれ?まだ終わってないんじゃないの?」
と聞くと
「家族が待ってるから家に帰るんだよ!」
と言われて日本との文化の違いに
思わず苦笑いしてしまいました。

国が違えば文化が違う。
28年間日本で生活していた自分には刺激しかない日々でした。

サッカーの面でも多くの気付きがありました。

オーストラリアのリーグでは日本より縦の展開が多く見られました。
日本ではポゼッションするような場面でも
ウイングが強引にドリブルを仕掛けたり、
体格の大きなFWへロングボールを
使ったりする場面が多かったです。

観客も球際のバトルを好む傾向にあり、
成功、失敗にかかわらずチャレンジする姿勢に対しては
気持ちのいい拍手を送る雰囲気がありました。

サイドバックを務めていた自分は
毎試合果敢に仕掛けてくるウィングとの攻防を楽しみにしていました。
サッカーの本質である『個』の部分へのこだわり
自分が忘れかけていたギラギラしている部分が
再燃したのもこの時期でした。

元豪州代表ユリッチとAWAY 鹿島アントラーズ戦での勝利後の一枚

在籍期間は半年でしたが、国内リーグを戦った次の日には
ACLを戦いに日本や韓国へ移動。また豪州に帰りリーグ戦。
そんなかなりハードな時間を過ごしたので、
なかなか街を散策する余裕はなかったですが、
帰国前に車で足を伸ばして行った大自然の中にあるワイナリーで
飲んだワインが美味しすぎて、その日からワインが好きになりました。

車で3時間かけて行ったワイナリー

世界的な大都市でサッカーをしながら過ごした半年は僕の人生の価値観や
サッカーの楽しさを思い出させてくれた最高の時間でした。

現地で支えてくれた野田家の皆さん

Jリーグから海外に出る事。
そんな気持ちがある選手にぜひ読んでもらいたいです。


最後に在籍していたチームの監督であるトニーポポヴィッチ監督
(2014年アジア最優秀監督)との逸話を話します。

ロッカールームで起きた驚愕の出来事を一部有料で書くので
興味がある方は是非購入していただけたら嬉しいです。
読んでいただきありがとうございました!!!

Coolなユニフォームがお気に入りでした!

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