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分断とナショナリズムを乗り越えるための「小さなシステム」、または自治

先日緑のFIKAの会なるイベントにお邪魔してきた。

FIKAという名前だけで、学生時代スウェーデンに住んでいた僕としては胸が高鳴る。

FIKAとはスウェーデンで広く浸透している「コーヒータイム」のような時間。
ただ、単なる休憩時間というより、コーヒーとシュークリーム(セムラ)を手に、友人や家族、同僚とまったりした時間を一緒に過ごすニュアンスのほうが強い。

お友達の家でFIKA(2010.2)

スウェーデンで過ごした1年足らず。
自然と調和し、家族や友人との時間を大切にする北欧での生活は、その後の僕の価値観を決定づけるほど豊かな経験だった。確実に今の僕の関心事にもつながっている気がするが、それはそれでまたどこかで。

さて、そんなFIKAを掲げているだけあって、「緑のFIKAの会」なる場はそれはそれはまったりしていた。一応ゲストとして呼ばれてきたものの、特に事前の調整も資料提出もない。会場のPOTLUCK八重洲に行けば、そこには端っこの空きスペースに数人がたむろしているだけ。そして各々の関心を思うがままに話す。決められたアジェンダがないぶん議論は発散しがちだが、もともとそれも織り込み済みなので居心地がよい。

そんな緑のFIKAの会ではいろんな話題が出たが、最後にこんな趣旨の質問をされた。

「社会全体の公益と個人の利益のバランスがすごく難しい。何かヒントがほしい」

分かる。それは行政官としても研究者としても一生活者としても、ずっと悩んできたことだったからだ。これに対する僕なりの回答をその時お話させてもらったが、その概要と、少し考えたことをここにまとめておきたいと思う。


1.公益とナショナリズム

社会全体の公益と個人の尊重について、ここでは便宜上、それぞれを「公益」と「私益」と呼ぶとしよう。
これらは、潜在的には常に対立する要素をはらんでいる。そしてその対立が許容できるレベルを超えている時、初めて問題として顕在化する。

例えば、「ダム」は両者が激突する典型的な例だ。

photo by Zack Dutra (@zdutra)

「大都市圏で電力が必要で…」
「農業用水を確保する必要があって…」

ダムができることによって大規模な発電や灌漑が可能になる。それ自体は正当な理由だが、ダム建設によって水没する村にとってはとんでもない話である。

「経済成長と農業生産は重要。そのためには電力と水資源が必要で、ダム建設が不可欠。ダム建設地に住む方々には申し訳ないが、公益のために我慢していただきたい。」

こうした論理は昔から様々な場面で見られてきた。ダム、米軍基地、原発。いずれも「公益」なるもののために、一部の人々が負担を強いられる構図という点では変わらない。

この点について、龍谷大学の田中滋は、「戦後日本のダム開発とナショナリズム」という論文で次のように述べている。

総力戦体制とは, 一国の経済的資源のみならず,人的資源までもが戦争遂行のために全面的に動員されることであるが,それは,ナショナリゼーションにおける「国民国家という社会システムへの包摂とその構成要素化」と「メディアの共有にもとづく地域や人々の実質的な均質化」を徹底し,さらにそれにもとづく機能分化とその機能遂行の計画的な徹底化をおこなうこ とであると言える。それは,端的に言えば「社会の機能主義的再編成」である。

戦後日本のダム開発とナショナリズム(一部読みやすいよう改変)

つまり田中は、こうしたロジックの背後には「ナショナリズム」とそれに伴う機能分化があると言っている。「国家にために」「経済成長のために」という論理の下、あらゆるものが「国家」という社会システムの下に取り込まれ、その中で計画的に機能が再編成されていくということだ。

しかしこれは決して遠い昔の話ではない。例えば、能登地震をきっかけに広まった「復興ではなく移住」発言とそれを取り巻く様々な言説について、先日自分なりの考えを記したが、ここにも近いものが見え隠れする。

「日本全体の地盤沈下を防ぐためには、成長分野に投資をしていくことが必要だ」
「日本にはもはやすべてを守る余裕はない。選択と集中が必要だ」

僕自身もこれらの指摘がまったく的外れかというとそうは思わない。物事には限度があるし、リソースにも限りがある。そのなかで、バランスを取りながら両者の落としどころを模索していくことこそ政治の仕事だと思う。

ただ、それだけでは片づけられないほどの分断の種がここには横たわっているようにも感じる。ここには、先に示した例と同様、「生産性のない高齢者や地方を支えるよりも、もっと経済成長につながるような投資を優先しろ」というナショナリズム的なイデオロギーが潜在的に存在している。先ほどの機能分化の話に引き付けていえば、「今後何の機能も期待できないところにリソースを投下するのは無駄である」と読み取ることもできる。

公益という言葉の背後には「ナショナリズム」的な考え方が隠れている場合がある、これは常に留意しておく必要があるだろう。

2.受益圏と受苦圏

では、戦後のように、ナショナリズム的なイデオロギーを仕方のないものとして受け入れざるを得ないか。

確かに、リソースそのものが縮小していくなかで、一定の選択と集中が必要だというのはもっともらしく聞こえるかもしれない。ここでは、この問題を考えるうえで、ふたつの手がかりを提示したいと思う。

一つ目は、環境社会学の「受益圏」「受苦圏」という概念だ。

1970年代に、ゴミ処理場や新幹線による公害が社会問題になり、「利益を受ける人たち」と「被害を受ける人たち」に分け、その位置関係によって問題解決の難易度が変わることを示すために生まれたものである。

朝日新聞より引用

当時は、移動手段の発達により人々の生活圏や行動範囲が広がったゆえ、何か事業や政策を進めるにあたって、「利益を受ける人たち」と「被害を受ける人たち」が広域にまたがるようになった。

新幹線を頻繁に使う人たちと、新幹線による騒音公害で被害を受ける人たちは、重なる場合も当然あるが原理的には別人である。

それの何が問題か?「利益を受ける人たち」と「被害を受ける人たち」が遠く離れていると、両者はお互いに「不可視」の存在になる。
この結果、「利益を受ける人たち」は、「被害を受ける人たち」のことなど気にすることなく(認知すらしていないかもしれない)、「被害を受ける人たち」は、見知らぬどこかの誰かのために犠牲になっていると感じるようになる。

つまり、何かの事業に対して、巻き込む範囲が広ければ広いほど、「受益圏」「受苦圏」の範囲は広がり、問題の解決は難しくなる、ということがここからは示される。

3.3つの福祉国家

もうひとつ、この問題を考えるうえでヒントになると思うのは、デンマーク出身の社会政策学者であるイエスタ・エスピン-アンデルセンが提示した、福祉国家の3つの類型である。

アンデルセンは、福祉を提供しうる3つのアクター(国家(政府)、市場、共同体(家族や地域))のバランスによって、福祉国家を①自由主義型、②保守主義型(コーポラティズム型)、③普遍主義型(社会民主主義型)の3つに分類し、それぞれの特徴を以下のようにまとめた。

平成24年版厚生労働白書より引用
平成24年版厚生労働白書より引用

ここでは、アンデルセンの類型を説明するのが主目的ではないので詳細は割愛するが、上で申し上げた「利益を受ける人たち」と「被害を受ける人たち」の分離は、社会民主主義レジームに近づくほど大きくなりうるという点は重要だ。
確かに福祉国家化することによって再分配機能は強化できる一方、「受益圏」と「受苦圏」は明確に分断され、共感できる範囲が狭まり、対立が激化する傾向があるように思う。昨年話題になった高齢者医療や、今年の移転騒動など、最近の動向を見るにつけつくづくそう感じる。

4.分断を乗り越えるための「小さなシステム」

ここまで見てきた3つの観点が示唆するものは何か。

それは、国家という非常に大きな単位が福祉国家のベースとなると、公益=国家になり、ナショナリズム的な地域役割分担を押し付け合う形になりやすい。その結果、その単位が広域であるがゆえ、「支える側」と「支えられる側」の分離が進み、対立の解決が難しくなってしまう、ということだ。

これを出発点にしたとき、我々はどのようにしてこの対立問題を乗り越えることができるだろう。

話は変わるが、1993年、Robin Dunbarは「ダンバー数」というものを提示した。霊長類の脳に占める大脳新皮質の割合と群れの個体数の相関を調べたダンバーは、人間が仲間と認識できる人数の限界は150人であると示している。

確かに、システムに裏打ちされた再分配はリスクヘッジになるが、近隣の人、ダンバー数の範囲の人を助けることと、遠く離れた「どこかの誰か」を助けることでは、助ける側のモチベーションに差が出ることは避けられない。

こう考えると、我々が分断を乗り越えるために必要なことは「社会をできるだけ小さな単位で回していくこと」なのではないか。

なぜ小さな単位がいいのか?
ひとつには、公益と私益が重なる領域が広がる可能性があるということ。「日本のために」「自分のために」は重ならなくとも、「自分が暮らすA地区のために」「自分のために」は重なる可能性も出てくる。

例えば、地域が元気になれば自分の収入も増加するような、そうした社会と個人との関係性を作っていくことが重要になる。「自治」とは自ら治めると書く。自分たちのために自分たちがするべきこと、義務を自分たちで考えること、そうした自治を強化していくことが必要になる。

もうひとつには、お互いがお互いを共感できる関係性を作りやすいということ。遠く離れた知らない高齢者より、昔からかわいがってくれている隣のおばあちゃんの方がシンパシーを感じやすい。そう思う人も多いだろう。

お互いがお互いを共感できるためには、少なくともひとりひとりの想像力が及ぶ範囲を拡大するためには、色んな人を知っていること、「顔も見えない名前も知らない誰か」をできるだけ少ないことが必要になる。
小さな単位にしつつ、そのなかでいろんな人をかき混ぜて、そしてできれば形だけの「交流」ではなくて「共感できる他者」を作っていく。理想的に過ぎるかもしれないが、そうした接点を増やしていくことで、共感できる範囲を増やしていくことができるのではないだろうか。

まとめると、国家単位のシステムは当然重要だ。僕自身もその再配分の恩恵を大きく受けている。
一方で、分断ではなく、相互理解の下でシステムを回していくためには、できるだけ小さな単位で回せるものについては、顔の見える関係の中で完結させることが望ましいようにも思う。先日信用金庫の仕組みを紹介したが、これも同一のコンセプトだと考えることができるだろう。

小さな単位で回していくことと、「コミュニティ至上資本主義」型に移行していくことには繋がりがある。これらの取組が、分断が加速化していく社会におけるひとつの出口になりえるのではないだろうか。


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