緑のフィーカの会(第3回2024/01/14)〜地域の看取り方〜

第3回の緑のフィーカの会を開催しました。今回は省庁で働きながら大学院で過疎集落や廃村の研究をし、さらに「地域の終活」というテーマで活動するNPO法人ムラツムギを運営している田中さんをお呼びしました。

田中さんは奈良県の旧大塔村という場所で生まれ、もともと4,000人くらいいた村ですが、戦後の高度経済成長期にみるみる人口が減り、今では(村全体で)200人足らずと言われているような「維持が困難」な地域のひとつで育ってきたそうです。そして「自然環境なのか人間関係なのか、家なのか」地域の人々に守りたいものを見つけていきたいというテーマを持ちながら活動されているとのこと。

そんな田中さんを迎えながら、今回もゆるっと地域のあり方についてざっくばらんにお話ししました。

今回の話の前提として能登半島地震とそこで発生した地域から撤退するべきか復旧させるべきかの一連の議論を念頭に入れているので、ご参考までに田中さんのnoteを読んでいただくとこの先のお話がより理解できると思います。

https://note.com/yusuketanaka1215/n/n465f2c320ef2

地域の社会インフラとコモンズについて

前回の議論で都市には機能的な側面と愛着的な側面があるという議論もあったが、今後のインフラという側面、そしてインフラを使っていくコモンズへ話を展開しました。

前提として社会インフラは人口密度があった方がいい。コスパを求める集中した方がよい。ただ、コスパだけでは片付けることはできず、価値観というものが入ってくる。過疎集落の移転などを考える際にはその集落が持つ役割をどのように説明していくのかが重要になる。十分に説明がつけばコストを払ってでも残すということになるし、そうでなければ都市に組み込まれることになる。

コスパ議論をする際は一対一対応している方が人にはわかりやすい。それは主に経済の文脈で語られるが、生物多様性など可視化されにくいものや多面化した過疎集落の役割などが評価されづらい。そうしたものを科学的に説明できるようになるといい。

小規模というものの重要性が見直されてほしい。DNAですら大きくなると管理コストが高くなる。それはDNAも都市も同じでシステムを作る上でのコストが過小評価されている。

コモンズとして里山の共有林が都市部にも共有されるような形を作り、共同体の形を広げることはできないのか。

山にも青年林がある。山の便益は地域の教育に配分されるというような仕組みがある。一方で、地域が地域のためにというコミュニティなのであまり都市と関係性が生まれることは考えづらい。

この点で2点崩壊している点がある。1点目として山が金にならない。昔は木が売れたがむしろ今は山をもつことがコストになっている。2点目は地域の共同体制、農村と山村でも違うかもしれないが資本主義化している。山は83%は法人、17%が個人で6割は地域外で山で働く人は雇われ労働者となっている。

残念ながら昔ながらの日本人と山の関わりは失われているのでは。それでも田んぼ水路の共同利用などがあり、共同体感覚がまだ残っているのでは。

農地も企業の参入の規制緩和が進んでいる。家族経営が農地の9割。集約化が進んでおり、コモンズ的な資源の維持管理からは離れている。これは核家族の話とも繋がって、(意識としての)家の範囲が狭くなった。

新しいコモンズ論を考えないといけない。シェアリングエコノミーなど、所有よりシェアという動きが出ている。


コモンズの範囲はどこまでなのか

山などの自然的なもの、農地の保全等の公共のものの活用は、自治体間で共有できるのか。

それぞれの自治体が独自に動いているから、なかなか合意形成まで至っていない。今後のあり方を自治体同士で議論できない。

日本の集落を過度にノスタルジックに語るのはナンセンス。古き良き日本に現実的に戻るのは難しい。コモンズにはオープンソースなものはない。資源が限られているからこそ、その資源を共同体の中で活用していこうという動きが出てくる。排除の論理が出てくる。一方インターネット等無限のものには、グローバルなコモンズということが成り立つかもしれない。排他性というクローズなものとどう向き合っていくのか。

アメリカ等の他国は、他民族国家で文化がないから外にオープンであるが、日本は昔からの文化が根付いていてクローズになる。目の前にある自然にある価値観を考え直す必要がある。自然は、山や海がつながり、広い恩恵をもたらしている。そうすると外の人と一緒に何かやってみようという気持ちにも起こってくるのでは。

集落の移転を考える時に、パフォーマンスはどこまで議論するのか。100人しか住まないなら本当にインフラ整備は必要なのか。

社会の公益的な視点。個人目線と2つの文脈で議論されている。国土を守るという社会の公益的な観点から能登に人はいた方がいいという議論と、莫大な費用をかけて社会を戻すことが本当に必要なのかという議論がされている。集落の多面的な役割はなんなのかを考える必要がある。今は便益の方が取り上げられている感じがする。

個人(感情)的な視点として地域住民が社会に戻りたいのか。移住して新しい地域に馴染んでいく人も多い。

土地と生産が結びついている人とそうでない人がいる。例えば、農業や漁業は直接的に土地と結びついているが、フリーランスは土地に縛り付けられていない。地域の愛着問題は、何によって形成されるのか。個人の思いをどの程度社会が組み込むのか。

集落の移転を考える

集落の移転を考えるとき、修復していくのがマストなのか。集落に選択肢を与えるのか。

住民で合意形成できるのかは最後に移れるのかにおいては大事。必ずしもゼロ百の議論ではない。一部移転という選択肢もある。

災害において鉄道をどうするのか。JRや国がお金を出せずに、地域住民が負担した事例がある。自らの負担を強いてまで、インフラを維持するのか住民に問われる場合もある。

災害は価値観を見直すきっかけになるのでは。人間の脆さみたいなのがはっきりと現れるのでは。こうした時に畏怖を感じて、価値観を一新していくことは重要。


日本の気候変動システム

気候変動などで災害が増えているが、この文脈で日本が貢献できるのは難しいのか。日本は気候変動に危機感を感じていないようにも見える。

日本は、防災システムがしっかりしている。台風があっても東京はびくともしない。この点は国際的にもリードできる分野。ただし、強力な防災設備があるがために、自然と切り離されて、気候変動の影響を感じづらい。EUは熱波があるし、島国は単純に国がなくなる危機感がある。

リードできる分野としては、日本的な里山の価値観は世界に発信していくべき価値観ではないか。

アメリカの国立公園は現自然だが、日本の国立公園は人間との共生がベースになっている。日本の国立公園は私人が持っている場合も多く、複雑だが、その複雑さを許容するようなnegative capabilityがある。


コンパクトシティは進めていくべきなのか。

行政的には鉄道とバスの管理はものすごいコスト。コンパクトにしてほしい。強制的にならない形で進めていく必要はあるのでは。

環境や渋滞の側面からライドシェアが注目されている。ドアtoドアの移動を管理していく。自動運転になって、最適解が出れば環境負荷は減っていく。そこは技術が貢献できる分野もあるのでは。

いつの話をするのかというのが大事。2080年のコンパクトシティの世界では、東京に住む必要がなくなるのでは。どこにいても同じような働き方ができて地方分散になる。移行するまでの話はどのタイミングで始めるのか、そうしたことを議論した方がいい。

移動手段の発展と人口は非常に密接な影響を与えている。空飛ぶ車に最も適した街は変わってくるかもしれない。

コスパは今の暮らしに焦点が当たっている。災害や戦争のリスクなど他面的な部分や長期的な視点に立てば地方にも焦点が当たってくる。

リニアモーターカーができると名古屋、品川が40分でつながる。そうすると地方や移動のあり方も変わってくるはず。

電車賃をゼロにするといい効果があるという研究もある。移動と地方のあり方は切り離せない。


今回の感想

地域が持っている感情から科学技術を考えると日本のあり方は面白いのでは。

日本人の意識がどう変わっていくのか。空気の研究のように、日本人は外圧で変わっていくのでは。インバウンドで里山が観光価値になって内部の論理を外の力で働きかけることができるのでは。

外圧に頼ることは重要。グローバルな外圧をどう使っていくのかは重要。

これからは、日本をもう少し細かい単位(州などで考える)同州性という話が上がってくるのか。ただし、中核をどこにおくのかという議論も必要。

広域的なプラットフォームができないといけない。生活圏で考えることも重要。暮らしの感覚で近い感覚で考えていく。

地方分散の話があるが、企業を分散させるのは、政策的な誘導がないと難しい。結局企業の職場に近いところに住むのでは。

地域という点で地域の循環をうむための、企業の役割がない。生物多様性や自然という価値観を企業が価値観を得られない。

撤退論は建設的な議論がなかなかできない。一定の組長は撤退についても真剣に議論すべきという感覚も持っている。

地域の共同体価値と個人の感情をどう折り合いはつけていくのか。

受益圏、受苦圏(受益権の反対で苦しみを請け負うこと)が非対称的なのでは。受益者が多いと少数の受苦者が数の論理に押しやられて、ダムを作っていくような発想になる。対照的になるように小さな単位で考えるべき。できるだけ小さな単位で回していくのが重要。

これからは日本的な考え方と技術革新が合わさってイノベーションが起こしていく必要がある。自治体という単位は僕も徐々に時代遅れになってきているように感じており、企業や住民の参画も得ながらより小さい単位で回していきながらイノベーションを起こしていく必要がある。

以上、第3回でした。次回は2月上旬の予定です。

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