ぼくらは何をコミュニケートするのか?

ここから2週間くらいはこの話題になりそうだ。

人と人(またはモノ)の間にあるコミュニケーションという見えない関係について、さらに掘り下げる必要がでてきた。ぼくらは、何をコミュニケートする(伝える)のか。

一般的には意思や意志や感情を言葉に乗せて伝える。誰でもそうかもしれないんだけど、具体的に何を伝えていくのか。その時々のよって変わるので、いつも返答を悩むし、困ったりもする。その瞬間、瞬間で、環境や状況も変わるので、意思や意志や感情も変わる。でも、個人の人格は単純にこれで良いと思う。

担当が変わると文脈が変わるというのは、意思や意志や感情だけでなく、言葉も人によって変わるので、仕方がないことでもある。変わり続けないためには、圧倒されるような、感動的なものがそこにあり、本やブログ、新聞、映像などのメディアに保存されていることも多い。

法人格ではどうか。

法人の人格の中には、考え方も言葉も異なるメンバー(社員・仲間)が存在する。一つに束ねようとすること事態がとても難しいことなので、社是というものや設立書などのビジョンが必要で、明解であればあるほど、良い会社だと思う。ビジョンがはっきりしてなくても、環境やメンバーに恵まれ、メンバーが共感したり、心理的安全を感じていたりして、良いバランスが取れることもある。

ただし、ルール化ではそうは行かない。それぞれの考えや言葉も異なるため、作業レベルの定義では納得がいくわけもない。それでは失敗もする。やはり、法人格にも意思や意志や感情が必要だ。そこから生まれる言葉に共感や気づき、感動ができることが重要で。平坦は言葉では共感が生まれにくい。

行動し続ける、考えし続けるを繰り返し、突き詰めて考え続けことで、整理がつくのかもしれないが、過去の経験が豊富でも今の経験が足りていないといつも感じる。何かの高みを目指そうとすればするほど、ドツボに入る。今度は、自分に深みを作るには数をこなすほかないので、一点を突っ走るように迷いながらも数をこなしていくしか方法はない。

とにかくめんどくさがらない。一つ一つ繰り返し取り組む。直近の過去の経験の積み上げが今なので、中から紡ぎ出るものでも良いのかもしれない。絞り出すというよりもにじみ出るという表現が正しいと感じる。

多分僕は感覚的にやってきたことで、滲み出ているものがないのかもしれない。身体は一つなので、一つ一つと向き合い、感情的に、愛でていくことと、色々なものに興味を持ち、感受性を持って、言葉にしていくしかないのだと思う。

伝えることが苦手だった自分が書きはじめて、さらして気づいていくのだと思う。(まだ苦手意識が半端ないし、ずっと裏方だった自分に後悔をしている)

 

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