見出し画像

国際的日本人 新渡戸稲造が苦しみの中から見出したこと

Biotechスタートアップの経営支援と経営者向けコーチングをやっていますLuidaBioの河野悠介です。趣味で偉人伝の先生もやっています。

最近は新渡戸稲造について久しぶりに人物研究し直したら、人生での挫折を乗り越えるヒントが色々見つかったので半分自分メモ目的で纏めてみます。

新渡戸稲造は1984年〜2004年まで五千円札の人としてその頃を生きたアラサー以上の方には馴染みが深いと思います。

新渡戸稲造といえば「武士道」でそれはそれで学びが多いのですが、今回は稲造さん(敬意を込めてこう呼ばせて頂きます)の人生を俯瞰することで最初に「武士道」に触れた10年前には気がつけなかった生きるヒント、さまざまな葛藤とどのように折り合いをつけて自己変容していったのかについて自分なりの分析や実践についてエッセイを書いてみます。

そもそも何が偉人足らしめているのか?

語り継がれるだけの偉業を成し遂げた方なので偉人なわけなのですが、以下すごく大雑把な整理をしてみます。

■幼少の江戸末期から自らの恵まれた環境と教育熱心な祖父や叔父の期待に応え、英語を習得し、続いて最先端の科学(農業生産技術)をキャッチアップしてみせる。超優秀!

■東大(帝国大学)で農学研究を続けようと思ったけど、レベル低すぎたので、即米国私費留学に切り替える。フットワーク軽い!

■留学先で奥さん見つけて国際結婚して日本に戻ったものの、様々な仕事を引受け過ぎてしまって立ち行かなくなる。追い打ちをかけるように長男が生後8日で夭折。奥さんと共に心を病んで札幌農学校教授職を辞し米国にて転地療養。ダメだ~と思ったら生きる環境を変える!

■せっかく時間ができたので、以前留学先であったラブレー教授から「日本では宗教教育なしにどうやって「正邪善悪の観念」を子どもに授けるのか?」と尋ねられた事、そして最も身近な妻に日本の文化や思想を紹介する為の執筆プロジェクトを開始。その結果英語版「Bushido The Soul of Japan」出版される(37歳)。"ピンチはチャンス"転んでもタダでは起きない!

■執筆の過程でキリスト教だけでなく西洋哲学や習慣まで研究しつくして、西洋人の土俵に立った上で共通な部分、違う部分を卓越した英語で説明し西洋インテリ層を大いに驚愕させる。強烈に高尚な英語を駆使、読めん!

■日本帰国後、当時植民地だった台湾の農業振興(製糖産業)を達成し、日本帰国後は高等教育、女子教育の普及に努め教育関係の要職を歴任。「農業生産基盤整備&教育投資=長期競争力向上」を実践!

■明治から大正にかけて日清、日露戦争に勝利し、民衆も西洋に追いついたと錯覚するようになる。本来の実力差をよく知っていた稲造さんは国際連盟事務次長を受任し日本と各国の国益をバランスさせるために東奔西走。

右翼に命を狙われても「驕り高ぶる日本人の精神性は、危険である」と釘を指したり、「軍閥が日本を滅ぼすのではないか」と講演で語ったりすることで何とか食い止めようとはしたものの、道半ばでカナダにて客死することになった。忖度なしにいうべきことは言いやりきった!

といったところです。

なんでそんなことできたのか?

強制的に開国を迫られ蹂躙寸前までいった時期の日本に生まれ、その後たった60年の間に今でいう国連のNo.2を担うまでに周囲を認めさせるまでに成り上がったのは並大抵ではないなと思います。

もちろん稲造さん1人の力ではないものの、今よりも欧米列強勢とのハンディが大きかった時代ですので偉業に違いありません。

以下に共に偉人について学ぶ仲間との問答の中で気がついた偉業を達成できた理由、さらには今の自分達に置き換えて実践可能だと思ったことを書いてみます。

1.与えられた環境での最大限のし上がれる領域を見定め、それを極めることができた

元々16歳で元服する前提の中で生きていた価値観では、幼児からの素読を通じた教育がなされるのは必然でした。中国古典を教授する祖父や寺子屋教師が読み砕いて自分達がどう生きるべきか?を考える素地が10歳前後で身についていたようです。4歳くらいからスタートし10歳までに学んだ書の数が現代の我々の想像を超えている量いたと考えられます。

稲造さんは英語教育を10歳前後から受けていますが、その前段の書物の素読を通じて言語や語彙、日本語で考える力をトレーニングしていたのは大きかったと思います。

明治時代旧南部藩の人たちは、逆賊として新政府に歯向かった人達とみなされていたので、政府要職につくことができず虐げられた立場でした。それゆえ祖父をはじめ養父となった叔父も自らの財産を稲造さんの教育に投資しました。

ここで重要なことがあります。当時の旧薩長閥のエリートは政治、法律を学び国家の舵取りをしていこうと考えていました。一方の稲造さんは同じ領域で努力をしても分が悪いこと、また政治の前に技術や科学で負けていることに気がついていました。祖父や父が農地開拓で業績を残していたことも後押しし、当時の最先端の自然科学系学問の1つである農学を選択しました。

①家系(バックグラウンド)の強み

②自らの興味関心が強く、やらされ感なく取り組める

③英語力という武器が活かしやすい

という全ての要素が重なる点である「農学や農業経済」で勝負しようと決めたことが稲造さんの1つの才能であったと思います。この考え方は何かの勝負の舞台を選択をする際に私たちも参考にできることだと思います。

2.壁にぶち当り「人は強くない」ことを理解して、思い切り休んで「刃を研ぐ」ことができた

稲造さんは、札幌農学校を出てからしばらく北海道の農業振興の仕事をしていた中でも学問を極めたいという思いは抑えられず、東大、米国への私費留学と歩を進めます。

当時は20代でしたので、なんでも吸収して学問の世界でのし上がってやる!というエゴも強かったのではないかと思います。信仰(キリスト教)でそんな自分を抑えつつ、米国→ドイツと貧乏生活をしながら西洋人の考えやその根底にある思想、宗教観も身体で理解したところで奥さんを見つけて帰国します。

29歳にして現在の北大農学部教授になりますが、上に書いたように様々な試練に合い(自ら引き起こしている部分もありますが)夫婦揃って現代で言うところ「うつ病」になってしまいます。

転地療養をせざるを得なかったレベルまで病気が重かったのもありますが、ここまで爆走してきて、しかもかなりのキャリアも積んできているからこそ自身のエリート意識や「できる!という自信」も強かったと思います。

「できる自信」は自分をハイにさせる麻薬のようなものでもあります。

「もっと!もっと!」となるのでいつかは対応できなくなる時が来ます。

良き指導者に恵まれた人は周りの方の協力を仰ぎながら、うまく自分が抱えずに散らしていくスキルを身につけられるのですが、実は表面上うまくやり過ごすのと、一度大きな葛藤期間を経るのでは、その後の人生における「あり方」が大きく変わると思っています。

つまり、「プレーヤー→マネジメント」スキルの話ではなく「内面(信念)の書き換え」に伴う、「幼虫→蛹→蝶」への変容というイメージです。

この変容は多くの場合、精神的 and/or 経済的な痛みを伴うものなので、誰もが味わう必要もないと思いますが、一部そういう役割を持っている人がいるのだなというのが最近僕が気がついたことです。

仕事を通じてお話させて頂く起業家や経営者の皆さんにはこの変容の最中にいらっしゃる方が多かったのですが、それ以外の場面でも目にする機会が増えるようになってきました。

僕が最初のnoteで「人生を耕す」というタイトルで書こうと思ったのは、自身がこのような変容の時期にある影響が多分にあります。

さて、話が脱線しましたが、おそらく理解者たちの強い薦めもあり米国での転地療養に踏み切ったことは稲造さんの人生のベストの選択だったと思います。

これにより、それまでの自分自身で創った「〜するべき」という拘束から放たれて、本当に自分が心からやりたい仕事として「武士道」を書き起こそうと思うに至ったと想像します。

3.刃を研いだ結果として自分にしかできない言語化に挑戦し智慧を生産し、それを伝播させられた

日本のシガラミから離れ、時間ができた稲造さんは、なぜ「武士道」を書き起こしたのか?

一番の大きな要因は稲造さんの関心の中心が「自分個人とその業績」ではなく、「日本が世界と渡り合うために自分は何ができるのか?」

もっと言えば、「日本を西洋の知識人にどう伝えると一目置かれて得か?」という次元に考えが移っていったからだと思います。

世の中には「妻に日本のことを伝えたくて」とか「ラブレー教授への質問へ返答しようと思った」といったさもありなんなキッカケが書かれていますが、僕はもっと長期的な日本の利益を狙っていたんではないかなと想像します。

「農学者として豊かな国づくりに貢献する」という志から、「東洋と西洋の架け橋になる」という志に真の意味で変容したのがこの時期だった

そして、確かに30歳前後で病を患い一旦キャリアはリセットせざるを得ませんでした。しかしきちんと休養を取れたことで、次の30年を見越して落ち着いた今でしかできないことを見定める事ができたのでしょう。

これまでにも農学者としての論文、著作物という形で知識の生産活動は重ねてきていましたが、それは学者としての「自分のキャリア」を築くためのものでありました。

ただ、病気や幼い息子を亡くす喪失を経験し、苦悶した結果、従前の学者や技術者としての名声を追う次元から離れた目標や役目を見つけることになったと思われます。

つまり、「守り育てたいもの」に「長期的な時間軸」で自分の人生を投資していくことに迷いがなくなった。稲造さんの場合その具体が「東洋と西洋の架け橋になる」という新たな志であり、その志のもとに「武士道」という新たな智慧が生産されたと解釈しました。

損得の視点は自分が楽に生きるために大事なのは言うまでもありませんが、その前提に自分のエネルギーが向く方向に素直に投資する(時間を使う)ことが大事だなと感じます。

裏を返すと基本自分や家族が死なない程度であれば「やらなければならない事を最小限にする工夫や割り切り」を自分なりに編み出すこと、それが他人の常識と異なっていたとしても自分で責任を取れる範囲であればプッシュした方が楽に生きれるし、おそらく社会の役にも立てるだろうというのが今の僕の仮説です。

そして「守り育てたいもの」は自分の外だけでなく内にもあるもので実はそれらは一体である。という感覚です。これはとても言語化が難しく抽象的すぎるのは承知しているのですが、いつか分かりやすい説明ができればと思います。

この時代の稲造さんが、日本を西洋列強から一目置かせる為に書いた「武士道」はその目的を果たすに留まらず、今を生きる日本人にも覚醒を促す内容です。僕は全てが今の時代に当てはまるとは思えないですが、その美徳とする多くの部分は幸い今の日本人の中から消えていないとも思います。

4.専門バカになることなく、自分の中の「体験知の貯蓄」と「大局観」つなぎ合わせることで年を重ねてしかできない役割を果たした

稲造さんが生まれた時代は西洋諸国に比べ、科学や技術では圧倒的に劣後した国であったのですが、その後日清、日露戦争にも辛勝ながらも勝ったというファクトだけで「もう西洋超えたんじゃね?」と民衆、軍部、マスコミ揃って調子に乗っていました。

日本や台湾の国力増進に貢献しつつも、戦争で実利を取れなかった交渉力、戦略性の低さについて分析していた稲造さんは、このままでは調子に乗って勝てない戦争に突入していって日本は破滅に導かれてしまうと相当の危機感を持って行動します。

60歳頃までは農学者、農業技術者としての顔もありましたが、そこから先は国際連盟事務次長など「東洋と西洋の架け橋となる」という志を地で行く国際人としての仕事を次々と引き受けていきます。

帝国主義がのさばる時代の国際間の利害調整は、元々ストレスに晒される場面には苦手意識があり病んでしまいがちな稲造さんには本当なら引き受けたくない任務だったと思います。

しかし自己変容が進み「自分以外の者への愛」と「武士道徳目としての『義』『勇』『誠』」が動機となっていたことで、それは祖国日本が悲劇的な戦争に巻き込まれるのを何としても食い止めたいという思いが勝ったのだと思います。

これまで海外要人との付き合いから得てきた彼らの考え方を踏まえ、何とか日本の立場を説明しようとするものの、稲造さん1人の力では時代の波に逆らうことができませんでした。

結果論としてはその当時の日本を戦争の道に突き進むことを回避させることはできませんでしたが、戦争終結後も各国のリーダーたちは日本を理解する為の教科書としてBushidoに目を通すことになります。

そして晩年まで一日本人として世界の中で自己の立場を説明でき、他者の利益を尊重して交渉にあたっていた事実はその後の外国人エリート層から見た日本人の印象を大きく変えた役割を果たしてくれたと思います。

最後に

今回は触れませんでした武士道に記載された、今の私たちから見ると古臭いと思われる徳目のエッセンスや共感できるセンスは確実に残っていて、なにかのタイミングで時折呼び覚まされるようです。

最近目にしましたサーフィンオリンピック代表候補の前田マヒナのインタビューにもそれが見られました。

なぜ彼女が「武士」を意識するようになったか、直接聴いたわけではないのであくまでも想像ですが、

■日本人の両親を持ちつつ海外(ハワイ)で外国人に囲まれて育つことで自ずから自分のルーツを意識したこと

■サーフィンというスポーツはスポーツである以上身体の動かし方や試合での勝利のために戦略や知識(理性)があるのですが、その皮膚や三半規管を通じて上位に存在する感性を刺激し、また反作用として知覚(理性)も影響を受けます。恐らくサーフィンを通じて感性が開かれていることで自分の中に残る「武士道」を感じたのかも知れません。

身体的知覚⇔知識(理性)⇔感性の関係については分かりにくいとは思いますが最近の僕の大きなテーマかつ重要な点ですので別の機会に譲りたいと思います。

【「世界へ寺子屋」オンライン開催のお知らせ】

本日触れました稲造さんについて以下の日程で深堀りしたオンライン講義とディスカッションをやります。

「新渡戸稲造-- "International nationalist"」第2回

9月12日(土)14:00~16:30 Zoom meetingを利用

本当は1回で纏めて前回7月に実施する予定でしたが、大変盛況だったため、後編をやることになりました。

この日は、主に晩年に米国、カナダの大学で日本文化の講義を英語でやっていますが、その内容を取り上げて解説、ディスカッションをしていきます。

①National Characteristics of Japanese People

②国民性の特色

③日本人の弱点

などです。

予告が直前になってしまって恐縮ですが、参加ご希望の方はmessengerかTwitterでDMください。

https://www.facebook.com/yusuke.kohno.1

https://twitter.com/luidabiollc

まとめ

与えられた環境での最大限のし上がれる領域を見定めること
専門バカになるのではなく、専門を研ぎ澄ませることで大局と使命を見出す
人の心は強くないことを理解して、休むべきときは休んで「刃を研ぐ」
刃を研いだ結果として自分にしかできない言語化に挑戦し智慧を生産する

参考文献

今回は、長文になってしまうので「武士道」やそこで示されている徳目についてここでは触れませんでした。

実は、「武士道」そのものを読むのは実はハードルが高めです。原著はかなり難解な英語で書かれています("Bushido The soul of Japan")。そこで入門としてお勧めしたいのは、最近惜しまれつつ鬼籍に入られた李登輝前台湾総統の著作であります「『武士道』解題」です。

李登輝氏も稲造さんに負けず劣らず相当な知識人であり、教養人です。そして20代前半までを日本人として生きた方です。

今のようなスマホやゲームがなかった時代ですから、書物を読み自己を探求すること、学問について議論することがこれからの世の中を背負って立つ自負を持っている若者には当然のことだったのかも知れません。

李登輝氏自身も大変な煩悶や葛藤を経たタイミングで稲造さんの著書に救われた経緯が記載されております。興味ある方は一読をお勧めします。

よろしければ、サポートお願いいたします!サポート頂いたお金は開発中の今後投稿予定の「ベンチャー企業経営」「組織開発」「子育て奮闘記」に関する無料記事作成に当てさせて頂きます。