夏が来れば思い出す遥かな膳所
気がつけば立秋も過ぎ、暦のうえでは秋なのだけど、そこは例年どおり猛暑が続いていて残暑お見舞い申しあげますなんて挨拶を交わす気分にはなれない。東京にいても今年はほんとうに暑い暑いとみんな話していて、ランチタイムには日傘がないと外も歩けない。お盆の墓掃除で熱中症にならないかが心配になってくる。
先ほど琵琶湖の花火大会のニュースが目にはいり、ああそうだった、花火の時期だったなと思い出す。ただ、それはなんとも後味の悪いニュースで、4年ぶりの開催だというのに運営側が有料エリア以外から見えないように4メートルの目隠しをしているのだと。
ああ、無粋なんてもんじゃない。花火大会はその地域のものなのに当事者を排除するとは。あまつさえ花火大会の運営には自治体からの金銭的なサポートもあるはずで、その元手は至極当然に住民の税金ではないか。それでいて交通渋滞とか騒音は甘んじて受け入れよというのは傲慢だろう。
自分が行ったわけでもないのに、出身地のことだからかどうにも不愉快な気分になった。
しかしこうした分断は着実に世の中にじわりじわりと浸透している。階級社会からほど遠かった日本ならではの、ゆるゆると皆が良心で繋がっている地域社会というのは消えてしまう運命にあって、その一端が花火大会での地元住民の排除なんて現象になって観察されているのだななんて思ったりする。
ニュースでちらっと映っていたのが膳所駅前のときめき坂で、ああそういえばと、最近この地を舞台にした小説を読んだのを思い出した。
いつものことながら冗長な前振りだけど、このnoteではその小説について思うこと思い出したことをつらつらと書いておくことにする。いつもはそれこそ無粋だから特定の小説の感想などは書かないようにしていた(いくつかほかの話題がらみで書いてはいるけどね)。しかしここまでドンピシャで自分の経験と記憶にリンクする作品は滅多にないから書かずにはいられない。
それなりにネタバレはあるかと思うので、この先はその点ご容赦くださいませ。
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その小説は宮島未奈著『成瀬は天下を取りにいく』(新潮社、2023年)。
以下、amazonの商品情報を抜粋。
6章構成すなわち6編の短編からなるオムニバス形式。それぞれがどこかでつながっており、時系列では主人公の中学・高校の3年間(4年?)をたどる流れになっている。6編のうち、「ありがとう西武大津店」と「階段は走らない」のみ『小説新潮』掲載作で、あとの4編は書き下ろし。
帯の推薦コメントにあるように、何と言っても我が道をゆく主人公の突き抜けっぷりが魅力だ。章が進むと、その魅力はそのままに、関わりあう登場人物とのちょっとしたやりとりから少しずつ成長する様子がうかがえる。
コロナ禍という異常事態の3年間。そんななか逞しく生きる人びとの自然体の生活と息づかいも描き出されていて、社会空気の描写もていねいだ。
わたしは物語の舞台に設定された場所になじみがあるだけに、30年以上も前の自分の中学高校時代を思い出した。30年違えばいろいろ違って当然だけれども、かつての自分と照らし合わせてしまう。
◇
主人公の成瀬あかりは滋賀県大津市で生まれ育った。琵琶湖に近い、におの浜のマンション暮らし。市立ときめき小学校(旧馬場小)に通い、作中、きらめき中学校から県立膳所高等学校に進学する。学校名などは虚実が入り混じった設定だ。ときめき坂は膳所駅から西武大津店までのショッピングストリート。
わたしは小学1年のときに大津市に転居した。JRの最寄駅は膳所の隣の石山駅だったから成瀬の住む地域とは若干ちがうけれど、成瀬とおなじ膳所高校に通った。大津を離れてしばらく経つもののまだ土地勘はある。
冒頭から出てくる西武大津店は、西武百貨店の大津支店。わたしが子供のころは「西武百貨店」で、いつからか「西武大津ショッピングセンター」と名称が変わった。ひな壇状のテラスが特徴的な外観。週末にはよく家族で買い物で出かけ、大津を離れても帰省の折にはかならず買い物に行った。レストランフロアにあった、おおきな翡翠の彫刻が置かれていた中華料理店。家族で行くことが多く、テイクアウトもしばしば利用した。
その西武大津店が閉店するニュースは、わたしもよく覚えている。思わずtwitterで報道を引用してツイートした。
コロナ禍だったから帰省することもなく、なにかのついでに両親と話した際に話題にしたような気がする。作中の街頭インタビューに出てくるような「不便になるなぁ」とか「寂しなるなぁ」みたいなありきたりの会話だったけれど。
その西武の閉店にあわせて、中学2年の少女成瀬あかりはある目標を決めて西武に通い続ける。これが第1章「ありがとう西武大津店」の話。その目標は大人の目には突拍子でどこか微笑ましく映るものだけど、コロナ禍でやることのなくなった中学生の発想としては、なんとも筋が通っている。自分が成瀬の立場なら、似たようなことを考えていたかもしれない。
そう、成瀬は一般的な感覚からするととても個性的なのだけど、実直で発想と行動に筋がとおっている。島崎みゆきという親しい幼なじみはいるものの、なにかと孤立している。まわりにどう見られようと本人はまったく気にしない。やりたいことをやってみる、ただそれだけ。彼女の精神はどこまでも自由である。
この主人公には誰かモデルがいるのだろうか。創作されたキャラクターのように見えてどこかリアルに感じられるのは、読者のわたしに共通点があるからだろう。
そう、成瀬は自分と似ている、とわたしは思った。まわりの“普通な”登場人物ではなく、校内きっての変わり者である成瀬のほうに共感できた。
わたしも小中学校では、辞書を読破したり、自作のマンガ単行本を出版したり、ベートーヴェンの交響曲をリコーダー用に編曲したり、すべての教科書にパラパラ漫画を描いたり・・・と、ほかの誰もやっていなかったことをひとりでやっていた。体育だけは苦手だったけど、体育以外はすべてが得意科目だったのも成瀬に共感できるところ。わたしは自由七科の教養を学びたかったのだけど、高校では得点につなげやすい理系選択だった。成瀬も似たようなことを言って理系を選択している。
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乱読を旨とするわたしははじめの3章ほどを読んだあと中断していた。残りは時間ができたときに読んだ。
それは高校1年生の長男が都内の私立大学のオープンキャンパスに行った今月はじめ。同伴を予定していた妻が体調不良で行けなくなってしまったので、わたしが急遽午後に休暇をとって合流した。ところがもう参加申し込みは締め切られていたのでわたしは会場に入れず、長男が出てくるまでやむなく周辺で時間をつぶす事になった。
オープンキャンパスの会場前の植え込みのブロックに腰掛けてこの本の続きを読んだ。第4章「線がつながる」は、ちょうど高校生になった成瀬が東大のオープンキャンパスに出かける話。1年生で参加するとは熱心だとかいうセリフが出てきて、ちょっと現実にリンクする。ちなみに長男の場合は夏休みの課題になっているという理由でオープンキャンパスに参加していた。
東大のオープンキャンパスで成瀬が聴講した公開講義は「ICP-MSを利用した希少アイソトープの分離と濃縮〜一兆分の一の世界へ〜」。どこまで共通点が出てくるのだろう、これには笑ってしまった。東大でこのテーマということは京大から移られたあの先生の講義だろうか、などと想像してしまう。ICP-MSはわたしにはとても馴染みのある題目だ。
わたしが微量元素の質量分析をはじめたのはモンゴルでの仕事がらみだった。このICP-MSすなわち誘導結合プラズマ質量分析装置での分析経験があったからこそ、いまの仕事に就けたようなものだ。いまはもう実際に操作することはなくなったけれど、毎日分析結果の解釈はやっている。こんな偶然の共通点も、共感ポイントになっている。
話がそれてしまった。
小説では、東京を訪れた成瀬はたまたま出会った同級生の大貫かえでと池袋に向かう。目的は池袋の西武百貨店。「デパートというよりも街だな」というその感想は、わたしも池袋で感じたものだった。そして「館内の空気が西武なのだ」の感覚。これもとてもわかる。
そして東京の人の多さに「花火大会ぐらい人がいたな」という感覚。そうそう、これが大津で育った者の感覚だ。特別なイベントは記憶に残って、その人なりの尺度になる。だから4メートルもの目隠しをして住民に花火を見せないなんて意地悪はやってはいけないのだよ、運営側は。
◇
各章は別の登場人物の視点で語られている。つまり各章の「わたし」や「俺」は成瀬以外の誰か。全編とおして主人公が三人称で登場する。そんなところも成瀬の個性を淡々と描き出すのにひと役買っている。
第2章「膳所から来ました」で、成瀬は幼なじみの島崎と漫才コンビに挑戦する。わたしは漫才にはあまり関心がなかったけれど、落語は聞いていたから、なんとなく気持ちはわかる。わたしが中高生のころはまだ枝雀師匠も健在で米朝一門の落語会をテレビ放送で観ていた。M-1の落語版があれば、もしかしたら挑戦を考えたかもしれない。
第5章「レッツゴーミシガン」は広島の男子高校生の視点。競技かるたの大会でやって来た広島の高校生が、個性的な成瀬を意識する初々しさがカワイイ。変わらずマイペースな成瀬は「RPGの村人みたいな口調」で広島から来た西浦航一郎を翻弄する。
わたしは遊覧船ミシガンには乗ったことがない。あれは地元民のものではないような気がしていたのだけど、そんなことはないのか。成瀬は広島から来た高校生たちをミシガンに招待する。その理由は、大津市民憲章の「あたたかい気持ちで旅の人をむかえましょう」。記憶が蘇った。バス車内でも大津市民憲章が読み上げられていたので、このフレーズには聞き覚えがある。そう来たか、と膝を打った。この章はコミカル路線だけど、成瀬の成瀬らしさを補強する内容になっている。
前後するけど、第3章「階段は走らない」はちょっと異色で1977年生まれの中年グループが物語の中心になっている。第1章と同じく西武大津店の閉店時の話。成瀬はテレビ中継に映り込む「ライオンズ女子」としての脇役だ。
最終の第6章「ときめき江州音頭」は伏線回収ストーリー。第3章の吉峰マサルと稲枝敬太が成瀬と島崎の「ゼゼカラ」コンビと一緒にときめき夏祭りの実行委員をつとめる。成瀬の個性はそのままに、登場人物全員の成長が感じられる素敵な締めくくりになっている。
◆
このnoteを途中まで書いていて、続きを書こうとスマホのnoteアプリを立ち上げたら、野本響子さんによる記事が目にとまった。エーリッヒ・フロムを引いて現代を生きるわれわれが個性を保つには理性が必要だとの指針が示されている。
成瀬あかりのブレない個性を思い出した。小中学校であっても同調圧力は存在する。むしろ強いかもしれない。わたしはずっと浮いた存在だった。程度の差こそあれ、子供の世界にもある同調圧力は世界共通だろう。
野本さんは“同調圧力の強い社会での「理性」とは「反抗すること」です。しかし、一人で反抗すると、人は孤独になります”と書かれている。
成瀬は孤立しがちではあるけれど、べつに反抗してはいない。しかしそれはまだ中学生、高校生という立場だったからとも言える。しかしその後に大学に進学し、やがて社会に出たら、成瀬あかりの個性は維持できるだろうか。さらに“理性”に磨きをかけて個性的でありつづけることだろうけど、うまく生き抜くにはどこかで妥協しなくてはならないのは世の常。
フィクションなのだからそこは非現実的でも貫くのが小説のセオリーだろうし、そこがおもしろくなるところだ。妥協なんて考えるのは無粋だけど、つい想像してしまう。
現在わたしは日本国内で就労している。はじめて働いたのは政府の外郭団体のケニア駐在。のちに日本で大学勤めをし、モンゴルでの駐在をはさんで、今は外資企業で働いている。一般的な日本社会の企業文化を経験しているわけではないから、日本の同調社会について述べるには経験不足なのは自覚している。
自分の考えで自分で責任をとって最善と思う主張をしても、ある者にとっては反抗としか受け取られない。そんなことはいくらでもある。そこで同調圧力に屈するかどうか。わたしは屈したことがないと言えば嘘になるけど、まわりからするとかなり屈していないように受け取られている。
先に引用した野本響子さんのnoteでは、同調圧力側が「自分の人生に責任を取りたくない人」であり、結果「不自由を愛する人」「権威主義的なものに従う人」「長いものに巻かれるのが当たり前だと考える人」になると書かれていて、なるほどと納得した。
逆を考えれば、自分の人生に責任を持つ、この気持ちがあれば自由でいられるのだ。少なくとも精神は自由でいられる。
「レッツゴーミシガン」で身投げしようとした男を救った成瀬と西浦。
成瀬は警察に、
「巻き込んだのはわたしなので、全面的に責任を負うつもりだ」
と話す。
成瀬が自由でいられるのはこの責任を負う姿勢のおかげなのだ。
この小説は個性的な成瀬あかりにフォーカスした内容だけど、ほんとうのところは成瀬というキャラクターを借りて同調圧力の恐ろしさと自由な精神の大切さを書いているのではないか。と、そんなことを考えてしまう。
『成瀬は天下を取りにいく』の続編は書かれるのだろうか。「天下を取りにいく」とのタイトルだけど、まだその天下がなんなのかはっきりしていない。次は天下を取ったあとだろうか。
そうだとしたら成瀬の目標のひとつ、次に大津にデパートができるときだろうか。日本で唯一、デパートのない県庁所在地になった大津市。下降し続ける経済状況で、そこに新たにデパートを建てる。こんなおおきな仕事をやってのける人物は、社会に埋没するような小物であろうはずがない。
コロナ禍の異常事態も脱しつつあるこのごろだけど、日本も世界もかなり不穏だ。そんななか、自由な精神にこそ希望がある。エーリッヒ・フロムは不自由さを許容することは人類の危機とまで言っている。“天下を取る”成瀬あかりは、じつは200歳で自由の女神になっているかもしれないな。
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