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ある親子の生き様と最期の死に様を通して、宝島で最期を迎えるということを教えてもらった話

高齢の母親を「看取る」覚悟で宝島に帰って来た方がいた。戦争で父親を亡くし、働くために島を出ていた、Uターン者だ。義昭さんは釣りが好きで、僕にも色々なことを教えてくれた。でも魚釣りに行く理由は、「好きだから」だけじゃなかった。

刺身が好きな母へ

高齢の母親、フミエさんは、年々食が細くなっていた。それでも、刺身は好きで、焼酎一杯と刺身を嗜まれていた。だから、刺身をきらさないように、冷凍ストッカーは、釣り上げた魚でいっぱいだった。

離島暮らしと聞くと、普段から魚が手に入ると思われがちだけど、意外とそうでもない。島民のみんなが大好きなサワラは、船があっても天候不良だと漁にも出れない。海岸からも高級魚がたくさん釣れる。けど、自分で釣らなきゃ食べれない。そんな状況を改善しようと、移住者が法人を立ち上げて、刺身や加工品の販売をしてくれていて、島の皆さんも助かっている。

でも、その頃にはそんな商店もなかったから、義昭さんは母親のために、足繁く魚釣りに行っていた側面があった。それでも、Uターン者を手放しで受け入れられていない状況があったのも事実だ。帰ってきたら当初は、色々な嫌がらせがあったと話された。

「大きな会社で勤めていたんだから、年金も大きいはずだ。」「島ではなくても生活できるのに。」「遊んで島で暮らしてる」と嫌な噂が流されたそうだ。漁業権を支払って、楽しみで伊勢エビ漁をしていたのにも関わらず、販売目的と思われたのか、漁に必要な網を切られたことがあったと、悲しげに話されたことを覚えている。母親の最期を看取るにあたり、大変な苦労をされたと思う。

神様を大事にして来た島

宝島は神様も大事にしてきた島だ。そういう背景もあり、当時の高齢者の中には、「火葬されたくない」と言う方も少なくなかった。フミエさんの家系も、神様に仕えていた歴史がある。だから、火葬されることを、とても嫌がっていた。しかし、「土葬」を行うには多くの課題があった。そして、実際に島で行うためには、たくさんのしきたりがあった。フミエさんの想いを全て受け止めるためには、宝島で最期を迎えた後、島の風習を周到する必要があった。そしてそれには、人手がかかる。近場に親戚が多く暮らしていた頃とは状況は違っていた。地域の力が必要だった。その想いを遂げる。それには、本人の覚悟だけでなく、家族の覚悟が必須だった。

最期の姿に学ぶこと

フミエさんは宝島で亡くなった。その数日前、縁側に出て来られたフミエさんが、家の修理のことや、フミエさん自身の生い立ちを話されたことを思い出す。今までの、ほぼ寝て過ごした日々が嘘のようで、話をする様子に驚いた。息子のことを気遣う姿に、母親としての顔をみた気がする。

島内にいる親戚関係も高齢化し少なくなる中、地域の方に協力してもらいながら、最期を看送る。義昭さんの心労は大きかっただろうと慮りながらも、その最期迎えていく姿に宝島の不器用な優しさや心強さを感じた。

僕らに何ができたのか

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