【評伝】野村克也さん--毀誉褒貶の奥に秘められた「賢いムース」の顔

本日、南海ホークス、ヤクルトスワローズなどで監督を歴任し、日本のプロ野球で戦後初の三冠王を獲得した野村克也さんが死去しました。享年84歳でした。

貧家の出身で野球では無名の京都府立峰山高等学校を卒業し、契約金なしのテスト生として南海ホークスに入団した野村さんが捕手としては弱肩であったこと、さらに握力を向上させるためにテニスボールやゴムボールを絶えず握ったり、肩の弱さを補うため配球術に工夫を凝らしたことなどは広く知られるところです。

こうした努力に加え、1954年に高橋ユニオンズが発足したことによる捕手の放出、温暖なハワイで行われたキャンプにより入団直後に痛めた肩が回復したことから、1956年に正捕手となると、持ち前の打撃力を活かして1957年に初めて本塁打王となりました。

その後は1965年に日本のプロ野球では戦後初となる三冠王となったことをはじめとして、通算で首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回を記録し、球界を代表する大打者となりました。

また、対戦相手の情報を綿密に分析し、検討を加えることで相手打者の特徴や傾向を踏まえた効率的な配球を行い、捕手としても大成しことは周知の通りです。

一方、1970年に選手権に監督となってからは文字通りホークスを代表する存在となったものの、1977年に前代未聞となる「公私混同」を理由に監督を解任されてロッテオリオンズに移籍するなど、後に配偶者となった沙知代さんとの関係は野村さんにとって躓き石となりました。

オリオンズから西武ライオンズを経て1980年をもって引退した野村さんは、現役選手時代に培った情報収集と分析の成果を活かし、解説者として実績を残すとともに、1990年にヤクルトスワローズの監督に就任すると、9年の在任中にリーグ優勝4回、日本一3回を達成して名将の地位を確立しました。

1999年から2001年までの阪神タイガース、2006年から2009年までの東北楽天ゴールデンイーグルスでは成果を残すことが出来なかったとはいえ、タイガースが2003年と2005年にリーグ優勝し、ゴールデンイーグルスも2013年に日本一になるなど、戦力の整備に大きく貢献しました。

このように球史に残る偉業を達成した野村さんではあったものの、当時は人気が低迷していたパシフィックリーグに所属していたこと、さらに長嶋茂雄さんと王貞治さんという、やはり日本球界の画期をなした大選手と同時代であったため、現役選手時代の野村さんの評価は決して高いものではありませんでした。

1975年に史上2人目となる通算600号本塁打を記録した際に長嶋さんを向日葵に例え、自らを月見草になぞらえた逸話や、「毒舌」と評された選手や球団経営陣に向けた発言などは、一面において野村さんが抱いたある種の劣等感の表れであり、他面において人目を惹く発言によって自らの存在感を際立たせようとした戦略的な行動であったと考えられます。

しかし、絶えず選手としての技量向上に努めたり、ドン・ブラッシングゲームが提唱した「考える野球」を采配に取り入れるといった貪欲さが選手としても監督としても野村さんを大成させたことは明らかです。

1960年の日米野球の際に来日したサンフランシスコ・ジャイアンツの大選手ウィリー・メイズが、状況への対応が素早いことに因んで付けた「ムース」という綽名こそ、生涯にわたって毀誉褒貶が相半ばした野村さんの真価を示すものだったと言えるでしょう。


<Executive Summary>
Critical Biography: Mr. Katsuya Nomura, a Giant of the Japanese Professional Baseball (Yusuke Suzumura)

Mr. Katsuya Nomura, the Former Manager of several teams including the Nankai Hawks and the Yakult Swallows, had passed away at the age of 84 on 11th February 2020. Mr. Nomura, who was the first Triple Crown of the Japanese Professional Baseball after the end of the Second World War, is one of the remarkable players and managers of history of Japanese Baseball.

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