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(小説)星の降る街 13

「探している途中に、あまりにも神様や仏様の話を聞きすぎたかな」
 菅野は力なく笑った。
「そうか、人は何かに頼らないとね。いいじゃないか、それでいいじゃないか」
 私はそう言うしかないと思った。
「だって地獄絵図だよ、ここは。見たことは一生言いたくない」
「それでいいと思う。もちろんそれでいいんだ」
 私はそう付け加えた。
「神様や仏様を呼びながら黒い波の下に沈むのは切なすぎる。だけど、神仏って元々何かはしない。神様の名前を勝手に付けて叫んでいるのは人間だからね」
 私は漠然と思っている気持ちを言っただけだが、菅野は合点がいったのか「そうか」と何度も頷いた。
「ああして欲しいとか、こうして欲しいとか、勝手に頼むけど、私たちは神ってどこかで完璧だと思いたいじゃない。どんな宗教でも。でも求めては駄目だね。ちょっとだけ分かってきた」
 菅野は腕を組んで考え込んでいた。普段は何も思わないが、人は究極の状態では脳が二つになったのではないかと思うほど回転するときがある。近しい人の心配、今夜の食事、明日の捜索範囲、しかも仕事のことまで、なんと目まぐるしいことか。
「有里はどこにいるんだろう」
 私のその言葉を菅野は恐れているかのようだった。
「マッサ、体は大丈夫か、しんどくないか。車で寝よう。避難所は窮屈だぞ、寝室代わりに親父の車ここに持って来ているんだ」
「ああ」
 菅野は何か隠している。そう直感した。
 深夜、菅野を問い詰めた。
「アベッツがあんな風だから言い辛くてまだ誰にも知らせてないけど、実家の隣の佐藤さんが渡波で佐々木先生に『行くな』って怒鳴られている有里を見ているんだよ。車を乗り捨てずに海側に行ったらしい。佐藤さんはマッサが中学の時に引っ越した後に泉町に来た人だから、俺や有里の家の隣人になってもう長い。有里を見間違える筈はない。それからすぐに津波が来たらしい」
 菅野は静かに話しているが、顔はひきつっていた。
「何やっていたんだろうな、配達くらいならそんな時に行かなくても。お年寄りの家に配達したら何かと手伝うことが多いって前に有里から聞いていたから、たぶん渡波に懇意なお年寄りの家があったのかもしれないな」
 私もそう思った。
「佐々木先生はどこにいるか分からないけど、近くの四階建てのビルに入って行ったそうだから間違いなく生存しているはずだ、と言っていた。佐藤さんは車を乗り捨てて電柱に登って助かっている」
 これ以上の確かな情報はない。

 連日、避難所、病院、遺体収容所など、いくら探しても手掛かりはなかった。私は一人で歩きまわっていた。すでに震災から十四目に入っている。時間は無常迅速に過ぎていく。避難所か病院にいない限り生存は絶望的だった。どこかの家に世話になっているという可能性も警察や消防署の人たちの情報から期待できなくなった。
 菅野は七日目には仕事を休めないからと言って一旦東京に戻り、阿部も心の傷は深いだろうが、少なくとも外見は元の元気を取り戻して銀行の勤めに出ていた。恐らく仕事になるような状態ではないはずだ。
 繰り広げられる街の光景には日常という言葉は存在しなかった。地震と津波はあらゆるものを飲み込んだ。何気ない当り前の毎日を破壊して飲み込んだ。小さな手で瓦礫の中を探り、アルバムを見つけて立ち尽くす子供を何人か見た。家族の名前を叫び続ける老人もいれば、おおよそ涙の似合わない、いかつい顔の中年が涙を拭きもせずに瓦礫を運ぶ。
 私は避難所探しを諦めて、地元の人や消防団、警察、消防隊員と一緒になって渡波を中心に瓦礫の中や海岸を捜しまわった。ようやく水も引きかけ、市役所から少し行ったところまでは水に浸かっているが日和山のふもとから歩けるようになり有里の家に向かった。坂道を上って行くと昔の市役所があり、有里の家はすぐ近くだ。周りの家は震度六強にしては見た目には大きな損壊はなかったが、家によっては窓や壁が破壊されていた。
 ドアが曲がっているのか開けるのに時間がかかった。鍵を預かっていたのがこんな形で役に立つとは夢にも思っていなかった。
 台所は崩壊状態だった。手のつけようもなく、茶碗などは使えるものはなさそうだった。一緒にイオンで買ったワイングラスやコーヒーカップも粉々になっている。二階の寝室は、タンスから飛び出した有里と私の新しいパジャマが絡まるように部屋の端まで追いやられ、ベッドも斜めになっていた。几帳面な有里がこの惨状をみると卒倒するのではないか。
 仙台に行った際に、青葉通りのマンションの一階にあるセントジョームで買ったという、フランス製のアロマランプが割れてはいなかったので少しほっとした。ガラスのランプは底にホタテ貝のデザインが施されたシェルという名前のもので、有里のお気に入りだからだ。二月に来た際に、私に日替わりで香りを楽しませてくれた。五種類ある薬液の入ったプラスチック容器も何かに激しくぶつかっていたのかへこんではいるが、中身は漏れていなかった。
 いたるところにスペイン、ヨーロッパの旅行書やサンティアゴ巡礼関係の本、写真集が転がり、有里の手書きのサンティアゴ巡礼の計画書、東京で発行してもらった巡礼手帳もあった。私はとりあえず、寝室と和室のある二階だけ片付けて、避難所を出て、この家から有里を探すことにした。
 和室の小さな仏壇は落ちていたが、中の位牌を含めて小物は壊れてはいなかった。仏壇が置いてある棚の、下の観音扉から出たものだろうか、五冊のアルバムやご両親の形見なのか古い腕時計や抹茶茶碗の箱が散乱している。
 アルバムの中は有里の生まれた時から結婚するまでが綺麗に年代順に貼られていた。小学校から中学校に掛けては私や菅野、阿部を加えて四軒の家族同士で遊びに行った記念写真も多くあった。その後は知らない人ばかりだったが、結婚してからの十三年間のものは一枚もなかった。完全に忘れたいと思って捨てていたのだろう。
 散乱している文房具などの小物類を引き出しにしまっていると中から私宛になっている手紙の束が出てきた。切手を貼る位置に番号が書かれていて十二まであった。すぐにでも読みたかったが、有里が差し出していないものを開封するのは秘密を覗くような悪趣味のようでそのままにした。
有里は行方不明だが、まだ死んではいない。

 私はプロダクションの赤田社長に無理を言って、仕事のキャンセルをしたり、納期を何度も延ばしてもらっている。さすがにこれ以上の我儘は言えないと思い、社長と二人で困り果てていた、進行中のものだけは仕上げるために一旦東京に帰った。
 半年たっても纏めることが出来なかった、大学教授八人が参加した公共哲学の会議録だ。誰かが手を入れれば「私も」という繰り返しで全く進んでいないものだった。ところが、「お気持ちはわかりますが、震災の影響でいろいろ大変でして。スタッフの身内が被災したものですから」の一言で仕上げることが出来た。
 四月に入って病院には電話はしていたものの、患者としてはあまりにもいい加減だ。詳しい事情説明をするために出向いた。医師は「大変だったね」とねぎらってくれ、通院しなかったことに納得してくれた。
「病気的には賛成はしかねるが、大切な優先順位って人により違いますからね」
 と言われたが、投薬でしばらく様子を見ることにしてもらった。なるべく早いうちに石巻に行って有里を捜したかったからだ。
 東京に帰って一週間、震災から一ヵ月経った日、阿部から電話があった。有里は結局どこの避難所にもいなくて、花屋の店主と奥さんの和子さんは市内の病院に入院していたが、退院してからはどこにいるのか分からないとのことだった。
 阿部が同僚行員らに頼んで、仙台市内などの近郊の病院に入院しているリストを当たったが有里の名前はなかったという。諦めてはいるが、気持ちの収まりが付かずにいた。
 そんな時に長兄から電話があり、父が肺炎になったので覚悟しておくように言われた。年齢的にも耐えきれないだろうと医者は診立てているという。それから三日後の深夜、次兄から父が逝ったと伝えてきた。
 私は危篤を聞いても帰ることもなく、癌の治療をすることもなく、有里を捜しに行く時間を作るために納期が迫っている仕事にひたすら打ち込んでいた。
「早く仕事を終えて有里さんの捜索に行きたいという気持ちはよく分かるけど、お通夜はいいから葬式だけでも帰って来い。父親だぞ」
 と二人の兄から続けさまに電話があり、慌てて帰った。普段の自分であればすぐに帰省している。明らかに冷静さを欠いている。
 父は、少し笑みを浮かべているようだったとみんなが感じたともいう。意識がなくなって三日間、何も苦しむようなことはなかったのではないか、と次兄が言っていたので、危篤状態を知りながら帰らなかったという自責の念からは少し救われた気持ちになった。
 春になって九十六歳を迎え、穏やかに死んだ父と、何も予期せず苦しんで死んで逝ったであろう有里、そして医者に言われた通りに治療や手術をすれば延命できるかもしれない自分の近い将来の死。三つの死の形を思った。
 私たちはどこが違ってこうなるのか、死は等しく訪れるというが、決して同じではない。
 人は誰でも思い描いた人生が送れないように、死に方だって希望通りにはならない。しかし、これではあまりにも理解が出来ないではないか、天を仰ぎ答えを探した。
 火葬場で父を焼いている煙を見ながら、宇宙の塵を思った。人は死後、星になる。先にそうなったはずの有里の頭を撫でて優しく抱きしめて欲しいと思った。
 私は父を失った悲しさか、自分の癌に対しての覚悟なのか、あるいは有里を思ってか、骨を拾う手の震えが止まらなかった。

       *

 バイヨンヌからバスで二時間ほど走るとフランス人の道と呼ばれるフランス側の出発地であるサンジャン・ピエ・ド・ポーに着いた。初夏の鮮やかな緑の車窓を楽しむはずが、途中で寝てしまった。どうやら何度か山を越えたのか四方が山に囲まれていた。山岳地帯特有のほんのりとした木々や草の香りが、澄みきっている空気を際立たせている。バス停から少し歩くと小さな川があり、その向こうに堅牢な中世の頃に作られたという石積みの城壁がある。門を通り抜けると日常と切り離されたかのような石畳と古びた街並みになる。
 歩いている人はすべて巡礼者なのか、リュックを背負っているか貝殻の付いた杖を持っていた。巡礼事務所に向かっていると、「ブエン・カミーノ」と何度も挨拶される。よい巡礼を、という意味のスペイン語で巡礼路ではすれ違うたびにそう言うと笹井さんに教えられていた。私もそう応じる。
 巡礼事務所では有里が準備してくれた巡礼手帳に「サンジャンを出発した」という証明書代わりのスタンプを押してもらった。世界中から集まるので、窓口は六ヵ国語くらいに応じているようだった。日本語は英語と兼ねられている窓口だった。
 クレデンシャルは通行手形のようなものだが、この手帳がないとアルベルゲと呼ばれる巡礼宿には泊まれない。どこに泊ってもいいのだが、公営の巡礼宿は一泊、五百円から六百円程度で泊めてもらえる。民間のアルベルゲでも千円あまりだ。
 巡礼手帳には名前、住所に加えて私の血液型、緊急連絡先まで必要な記入事項は有里がすべて書き込んでいてくれた。
 出発時間はほとんどの人が朝の五時から六時と早い。消灯は午後九時なので早めに夕食を済ませるように事務所の係員にアドバイスされた。事務所で割り振りされた近くの公営のアルベルゲに行くと、二段ベッドが十台ある部屋に通され、私は真ん中の落ち着かないところになりそうだった。端っこのベッドを確保していたイタリア・ジェノバから来たと自己紹介してくれた三十歳くらいに見えるピエールが代わってくれた。敬老精神だと大真面目に言われた。まだその好意を受けるには年齢は足りないと思うが、周りの人もうなずいているので、気恥ずかしさを覚えたが代わってもらった。
 大方の人が二人とか五人ぐらいのグループで来ているようだったが、ピエールは一人だった。妙に明るい雰囲気を持ち、社交的な性格なのか晩御飯を近くのレストランで一緒に食べようと約束させられてしまった。部屋から裏庭に出ると、たくさんの洗濯ものが干してあった。私もここ三日間パリで着用したものを洗濯した。幸い天気はよくすぐに乾きそうだった。
 終わってもまだ午後三時にもなっていなかった。街の中に散歩に出かけると、巡礼者らしいフランス人の老人に「杖や巡礼者のシンボルの貝殻を用意しているか」と聞かれた。私がまだだと言うと、「杖がないと絶対に歩けないほど厳しいし、貝殻は昔からのシンボルだから買った方がいい、リュックに付けていたら巡礼者とすぐ分かるしね」と勧められた。
 貝殻は、中世の頃にフランスやイタリアの人が聖地サンティアゴ巡礼をしてきたと言っても、サンジャンに来るまでが大変な時代、誰もイベリア半島の西の端まで八百キロもあるのに、と信じてくれない。そこでサンティアゴからほど近い大西洋に出て、証拠になるようにホタテ貝の殻をもって帰ったのが始まりという。以来、巡礼といえば貝殻がシンボルになっている。サンジャンにも至る所にサンティアゴまでの距離を書いた貝殻のついた道標があった。
 私は杖と貝殻、つばの上に十字架の付いた帽子を買って小高い丘に登った。ピレネーの山中らしく遠くに見える豊かな緑の山肌に羊や牛が放されている。前日までの大雨で洗われているせいか、石とレンガ作りの村も山も鮮やかに輝いている。振り返るとスペインの方はそれよりはるかに高い山が見えて、踏破出来るのか不安になった。
 私は大きな石のベンチに腰掛けて有里の三通目を開封した。


「星の降る街」無料公開の前編はここまでです。
後編は少々作業のための時間をいただき、3月中に有料マガジンで、残り約7万字(13~15編相当)を公開する予定です。
引き続きお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。


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