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なぜ「FINAL FANTASY VIII」に23年間も心を奪われ続けているのかという話【ネタバレ含む】

1999年2月11日に発売された「FINAL FANTASY VIII」、通称FFVIII。
発売当時、小学6年生だった私にとって、それは衝撃的なゲームでした。

前作のFFVIIは終盤のストーリーが当時小学生だった私には難しく、しっかりと話を理解できたのは大人になってからでした。
そういう点では、ちょうど漢字も読め、情緒的に成長してきた小6~中1にプレイしたFFVIIIが、がっつりと私の心を奪い取ってしまい、それから23年経った今も変わらないという状況です。

今年で発売から23年。四半世紀も近づく中、何がそれほどまでに魅力的なのかというところを、思い出とともに記していきたいと思います。

ちなみに、完全にあらゆるネタバレを含みますので、未プレイ・未クリア・これから遊ぼうとしている方はご注意ください。
ストーリー、ラスボス等、クリア済みの方向けの内容が多く含まれています。




発売したときの周りの様子

FFVIIのときも凄かったですが、FFVIIIのCMがまた異常な魅力を放っていたことは、当時CMを見ていた世代だった方々には納得してもらえるんじゃないでしょうか。実写のような機械、キャラクター、フェイ・ウォンの歌声、たった15秒の間にギュッと詰め込まれた情報は、「やっぱりFFってすげえ…」と思わされるものでした。

その当時はまあ、インターネットが少しずつ普及してきた時代でしょうか。少なくとも小中学生が今のように自由に使える時代では無かったと思います。携帯も持ってなかったですし。

ゲーム情報を得る手段はファミ通などの雑誌か、またはコンビニのデジキューブ。デジキューブってもう知らない世代が多数ですよね…。コンビニにiTunesカード売り場みたいにゲームのカードがおいてあって、それをレジに持って会計すると、ゲームを買えるというシステムです。もちろん当時はダウンロード販売なんて無かったので、言ってみればコンビニにゲーム販売機能がついてた、みたいな話です。
FFVIIIを購入したときはストラップがおまけでついてきましたね。FFIXのときはビビ人形だったり。当時は初回特典でグッズがついてきました。懐かしいです。

FFVIIIの発売は、当時としてはもう社会現象というくらいの影響力を持っており、徹夜でゲーム屋に並ぶ人もいたり、ニュース番組で特集されたりしていました。実家に帰ればおそらくVHSに録画した当時のニュース番組「やじうまワイド」にて、FFVIIIのバグについてアナウンサーの方が解説している様子が残っているはずです。ゲーム一つのバグが、民放のテレビ番組のニュースになるような出来事だったのです。

ゲーム自体の売り上げも約370万本。プレイステーションで歴代2位の売り上げのゲーム、とのことですFFVIIは発売初週で200万本の売り上げ、FFVIIIは予約だけで200万本の売り上げですから、日本全国の期待度が最大限まで高いゲームであったということです。



ゲームの反響

では、いざ発売されての反響はどうだったのか…。
結論から言えば、FFシリーズでは珍しく、というか非常に残念ながら、「賛否両論」または「否定的」なレビューが多かったと思います。
特にやり玉にあげられたのは「わかりにくいジャンクションシステム」「魔法が個数で管理されているシステム」「レベルを上げても敵のレベルも上がるシステム」。そして何より多かった感想が「ヒロインのリノアが魅力的ではない」というところです。

それらの要素がゲームの感想として広まっていったことは、実感として覚えています。先ほど書いた通り、インターネットも今ほど普及していなかった時代ですから、ゲームの話は学校の友人とするのが基本になります。そこではやはり「FFVIIIはクソゲーだった」「つまらない」「リノアが微妙」と言った話になるわけです。

しかし、子供ながらに涙が出るほど感動し、主人公たちの成長に強く感銘を受けていた私は、まさに真逆の感想を持ち合わせていたわけです。
とはいえ、クラスの中で目立つ存在では無かった私としては、そのような「FFVIIIはクソゲー」という話を聞くたび、苦い笑いを浮かべるだけだったのでした。



頭身の高くなった、リアルなキャラクター造形

FFVIIからの進化として、グラフィックの強化と何より主人公達登場キャラクターのリアル化が大きいものでした。最初に目を引くのは、もちろんキャラクターの見た目。ムービーシーン以外ではデフォルメされた見た目だったFFVIIに比べて、ちゃんとした頭身があることでびっくりしたと同時に、もう本当にスコールがかっこよかったんですよね。長身、イケメン、長剣を振り回す姿。
特にムービーシーンのかっこよさは飛び抜けており、同年代のゲームとは格の違いを見せつけていました。

頭身が上がったことで、各キャラクターの細かな動きも追加され、とてもキャラクターの個性が分かるようになったんですよね。手首やひじ、腰や首、膝などの関節ごとにキャラクターの動作が存在するので、より人間らしい動きになります。その結果、ストーリーシーンでの困惑や恥じらい、無関心や熱情など様々な感情が分かりやすく伝わってくるようになりました。時代的に表情までは変化しませんが、ボディランゲージにて十二分に感情が伝わってきました。

これにより、キャラクターの好意や気合い、苛立ち、退屈や落胆などの喜怒哀楽がセリフのみならず動作からも伝わってきます。
現代では全く珍しくないですが、当時のゲームでは本当にこの一つ一つの動作が魅力的でした。

リマスター版では顔のグラフィックが高解像度化し、顔立ちがはっきりわかるようになりました。1999年の発売当時にプレイした自分としては、低解像度のほうが思い入れがあったのですが、しかしリマスター版から入る人にとってあの低解像度はさすがに厳しい…どうしても笑えてしまうようなものであると思うので、良いリマスターであると思います。



性格が暗い主人公が、対比となるヒロインにより変化していく成長の物語

FFVIII最大の魅力。それは、主人公のスコールがヒロインのリノアとの関わりにより人間として変化していく、成長物語であるというところです。

スコールは、基本的にネガティブ…というか、他人に無関心な性格です。
他人に干渉せず、また他人からの干渉も嫌います。自分の気持ちを他人に伝えず、また伝えるのが苦手なタイプです。
これは当時の時代感、90年代後半の時代感ですかね…FFVIIのクラウドもそうですが、ちょっと熱血とはかけ離れた、やや冷めた、内に籠るタイプの男の子。スコールは、そんなキャラクターだったのです。

人と接することが苦手。人と接しても自分の話をしない。心で思っていることを伝えない。
たまたま所属している兵士養成学校で、強い実力を示しているからいいものの、周りの人間からすればスコールはなかなかにとっつきにくい人物です。

そこに、ある意味では土足で入り込むのがヒロインのリノア。初対面のパーティでは無理やりダンスに誘い、2度目の出会いでは急に抱き着く。そんな、スコールの人生では出会ったことの無いグイグイとくる人だからこそ、スコールはリノアに心を開いていきます。

とは言え、その道筋は決してスムーズなものではなく、当然ながら対極に位置するような性格同士がぶつかることもしばしばあります。スコールの態度にリノアが反対するような場面もあり、険悪な雰囲気になることもあります。
しかし、逆に考えると、スコールにそこまでぶつかってくる、はっきりと言ってくるキャラクターは今までいなかったのです。

ぶつかるからこそ、スコールはある意味で「逆ギレ」し、リノアに対してきつい言葉を投げかけることもあります。そしてそれは、普段スコールが秘めていた「心で思っていたこと」なのです。
こういった衝突により、スコールはリノアに対し徐々に(思ったことを言えることで)心を開いていきます。決して喧嘩して終わりではなく、その後お互いに反省、歩み寄る姿勢を見せることで、お互いの距離が近づきます。

そして他のキャラクターはここまでスコールに対して積極的に入り込んでこないからこそ、リノアという存在が、スコールにとって特別な存在になっていくのです。

スコールとリノアの関係が深まるのは、普段の会話で少しずつ、微細ですが描写されていきます。どこか、グイグイと積極的に近づいてくるリノアに合わせているようでありつつ、スコール自身もそれを完全に嫌がるのではなく、少し楽しんでいるような描写です。それはスコールが他のキャラクターには見せたことの無い態度でした。

二人の仲が少しずつ深まっていき、お互いの意見を尊重できるようになった頃、お互いの「今」という時間に対する考え方が分かるシーンがあり、その場面が非常に、二人の考え方の真逆さを表している良いシーンでした。


スコールとリノアの「今」に対する考え方

スコールは過去に、大事な家族と呼べる人と離れ離れになってしまった経験から、「いつか仲間と別れてしまい辛い思いをするくらいなら、最初から1人で良い」という考え方で生きています。
一方でリノアは真逆。「未来の保証は出来ない、いつか別れが来るかもしれない。だからこそ、『今』を大事にする」という考え方です。

まさに「今という時間と、人との関わり」に対する考え方の違いを感じます。
このような差異がある二人、そして何より、凝り固まったスコールの考えを、何度もぶつかりながら変化させていくリノアの力が、最終的にはスコールの行動変容へと繋がっていくのです。
それは、人との接し方が未熟な十代の少年が、徐々に徐々に成長していくことに繋がり、その変化がまた、FFVIIIの大きな魅力なのです。


変化するスコール

自分の踏み込んで欲しくないところまで踏み込み、ストレートに意見を言うリノア。やがて、彼女の影響で具体的に変化したスコールの心情は、ゲーム中盤ではっきりとします。

ゲーム中盤、リノアは意識不明の昏睡状態に陥ります。どうすれば目を覚ましてもらえるかわからないものの、スコールは一縷の望みをかけ、遠い国に向かうことを決めます。長い長い道を、リノアをおぶって、歩き続けます。それはもう、途方もない距離です。

他人に心を開かず、他人に干渉もしなかったスコール。そのスコールが、一人の女の子を背負い、その子のためにひたすら歩き続ける。先のことは考えず、周りのことも考えず、とにかく他人であるリノアに強く干渉し続ける。
本人も自覚します。「俺、なにやってるんだ?」と。

そしてその道中、物言わぬリノアに対して…本当に心から思っていたこと、他人に興味が無いふりをしていながら、実は他人からどう思われているかが気になって仕方なかったこと。それらを吐露します。

例え相手が眠っている、昏睡状態であったとしても、この考えは今までのスコールには無かったものでした。むしろ、人からどう思われているかを気にする素振りをひたすら隠していたのに、あっさりと曝け出してしてしまう。

それはきっと、眠っていたとしても相手がリノアだからこそであり、リノアがいかにスコールにとって大事な人であるかを象徴するシーンでした。
同時に、リノアとの多くの関わり、衝突、対話により、ゲーム開始時とは別人のような、成長したスコールの姿が、成長を感じられ心が温まるシーンでもありました。

FFVIIIはクリアまでに数十時間かかります。その間、豊富なイベントとそれに関わるセリフ、細かなキャラクターの動作、様々な要素から形作られる物語の中で、明らかにスコールが成長しているのです。リノアはもちろん、他人との関わりを経て成長したスコールが、ゲームを進めるほど頼もしくなっていく姿は心が沸き立つ思いです。そしてその過程で、大事な存在となるリノアとの関係、リノアを失いたくないというスコールの思いがあるからこそ、悪の魔女を倒したいと思う、その「当事者だからこその説得力」が、物語の求心力を非常に強くしていました。


リノアは「悪女」なのか?

よく、スクウェア3大悪女…などのくくりに入れられてしまう、ヒロインのリノア。確かに、初対面で「私のことが、好きにな~る」や、「おハロー」「ハグハグ」など、それまでのFFシリーズでは登場しないキャラクターです。

ただ、その行動は確かにちょっと突飛ではありますが、個人的には悪女と言うほどでは…ない気がします。もちろん部分的に切り取ると、「パーティ会場で目当ての人を見つけるため、適当にスコールを使いダンスに参加した」ように思える場面もありますが、しかし先にその理由をスコール本人に説明していることもあり、そこまで責める内容では無いと感じます。(とは言え、17歳という年齢にしてはかなり男慣れ、グイグイと行く性格ではあるように感じますが)

どちらかというと、裏表なく、相手に好かれようが嫌われようが自身の本心をストレートに伝えるため、誤解を招くこともあるキャラクターなのかと思いました。
何より、あの無口でコミュニケーションが苦手なスコールの心を開かせるには、このくらいストレートに、他人にどう思われてもいいようなスタイルでぶつかるリノアにしか出来なかったのかな、とも思います。

私としては悪女とは言えないと思いますし、やや後先考えないアグレッシブな性格だからこそ、批判の矛先になりやすかったんだと考えます。それでもやはり、このゲームにとって…というか、スコールにとって、スコールの成長にとって、最も必要な性格を備えた、FFVIIIのヒロインであると思っています。



誤解されやすいが理解すると快適なジャンクションシステム

ゲームとして、ストーリーテリングとして、圧倒的に優れているのがこの「ジャンクション・システム」です。ある意味でユーザーを振り落とし、批判の対象となったジャンクション・システムですが、このシステムが存在するからこそ物語に重みと深みが発生するという、システムとストーリーが融合した見事なシステムがこの「ジャンクション・システム」です。

FFVIIIでは、装備がほとんど存在しません。あるのは武器のみです。それも各キャラ固有の武器が、数種類のみ。数十時間を費やすRPGで、それだけです。その他の防御力や素早さ、魔法攻撃力や属性などのステータスは、武器を変えることでは何も変化しません。
このゲームで装備するのは「魔法」です。まず、前提としてこのゲームの魔法はMPを消費するのではなく「個数」で管理されます。アイテムを使うように、魔法は使うたびに「1個」消費するのです。そしてその魔法を装備することを「ジャンクション」と言います。これがFFVIII固有の、「ジャンクション・システム」です。

「魔法」を装備する…例えば、「HP」というステータスに「ファイア」という魔法を装備すると、ファイアという魔法の個数に応じ、HPが増加します。これが、ファイアの上位魔法である「ファイラ」であれば、同じ個数でもより大きくHPが増加しますし、最上位の「ファイガ」という魔法であれば、もっとHPが増加します。
一方で、当然ながら最上位の魔法程手に入れるのが困難なため、手に入れられるのは物語の後半となります。つまり、通常のRPGでは後半になるほど強い装備が手に入りますが、このゲームでは魔法がそれを代替し、後半になるほど強い魔法(大きくステータスを上昇させられる装備)を手に入れることが出来るのです。ここがユーザーにとってわかりにくく、躓くポイントなのかなと思います。

また、余談ですが、ゲームの評価で一人歩きしている「主人公たちのレベルが上がると敵のレベルも上昇する」というのは間違いではありませんが、正確には「主人公たちのレベルが上がることで敵のレベルも上昇し、レベルの上がった敵からは強力な魔法が手に入る=主人公達が敵よりも強くなれる」という表現となります。

一般的なRPGで考えてしまうとレベル上げの意味が無くなってしまうのではと思ってしまいますが、FFVIIIではそのようなシステムのため、レベルを上げることの意味はしっかりと存在します。そして、「レベルが低いまま強力な魔法を手に入れる方法」もしっかりと存在するので、そのあたりの工夫を行うことで、むしろ他のRPGより簡単にクリアが出来るのです。私ももう何度かクリアしていますが、一番最近クリアしたリマスター版ではラスボス直前のデータでレベルは22でした。もちろん、これで十分クリアできます。

少し難しく、誤解を招きやすいシステムですが、理解すると非常に簡単で、攻略がぐっと面白くなるシステムとなっているのです。
そしてそのシステムが、「ストーリーと関連してくるからこそ」このゲームの面白さが高まり、完成度の高さに繋がっているのです。



「ジャンクションシステム」が紡ぐストーリーとの関連性

「ジャンクション」出来るのは魔法だけではありません。
このゲームでは「G.F.(ガーディアン・フォース)」と呼ばれる、他のシリーズでいういわゆる「召喚獣」を、「装備」出来るのです。
召喚獣を装備、このゲームで言いかえると「G.F.をジャンクション」となりますが、そうすることで初めて「魔法」を「ジャンクション」出来ます。
つまり、魔法を装備して強くなりたいなら召喚獣を先に装備しないといけないのです。そして装備する召喚獣によって個性があり、特殊なコマンドが使えるようになったり…と、「そのG.F.を誰に装備させるか」といった戦略も生まれてきます。
このG.F.は装備したキャラのHPを強化できる、このG.F.はあまり強化出来ないけど強いコマンドがある…など、いわば「共通する装備を誰に割り振るか」で戦闘の幅が変わる、簡易ジョブシステムのようなものであったと思います。

そして、魔法の装備ですが、魔法は個数で管理されているため「キャラクター同士で魔法の受け渡し」が可能です。これにより、戦略的な魔法個数の管理が可能ですが、影響してくるのは魔法をジャンクションしたときのステータス強化です。「強い魔法をたくさん装備させたいが、一人にその魔法を持たせすぎると他のキャラが弱くなる。分散させて、全キャラが満遍なくジャンクション出来るようにすると、逆に少ししか魔法をジャンクション出来ず、強化の度合いが少なくなる」というジレンマもあり、なかなかに頭を悩ませる絶妙なシステムが成立しているのです。

その戦略を考えるのも楽しいのですが、ことFFVIIIにおいては、「そのシステムが物語とリンクしている」のが非常に魅力的なのです。

「G.F.をジャンクション」しており、魔法を装備することでステータスが上昇する。だからこそ、主人公のスコール達は強く、敵国の一般兵などを蹂躙できるのです。なぜなら、敵の兵士はジャンクションを行っていない、言ってみれば生身の体だからです。

ある意味でチートのような強さを発揮するからこそ、兵士としての価値があり、価値を高めるためにスコールの在籍している学校 - バラムガーデンでは、G.F.のジャンクションをレクチャーしています。強い兵士を育てるためです。

ではなぜFFVIIIの世界では、一部の人しかG.F.をジャンクションしていないか。それはただ単にゲーム上主人公たちが傭兵として、強くないといけないから…という理由だけでなく、「G.F.ジャンクションに対する批判」があるからです。

このFFVIIIの世界では、一部で「G.F.をジャンクションすると記憶が消えていく」というような説が流れています。G.F.批判を行う人たちがおり、彼らはG.F.をジャンクションすることで健康被害があると主張しているのです。スコールたちの学校はG.F.をジャンクションしていますが、他の学校ではG.F.のジャンクションを行っていません。様々な考え方が、この世界には存在するのです。

ゲーム最序盤くらいしか触れる機会のない、スコールの所属する
学園内のネットワーク(チュートリアル)。ここに伏線が含まれていました。

まあそういう風潮もあるんだな…程度の、ちょっとした世界観設定の一部のようであり、実はここが物語に関わってきます。

実は主人公達のうち、G.F.をジャンクションしたメンバーは、過去のことを忘れてしまっているのです。それも、かなり長い期間の記憶を失っています。
それが偶然かそれともG.F.批判派の言う通りジャンクションの影響かはわかりません。しかし、実際に忘れているのです。
ここが、システムとストーリーが関連するポイントなのです。

主人公のスコールたちは、学園から課される試練を始め、さまざまな魔女を巡る動乱に巻き込まれていくわけですが、しかしその過程で間違いなくG.F.をジャンクションし、自身の戦闘能力を強化します。

一方で、実はそれが記憶の欠落に繋がっていた。そして、その記憶の欠落がストーリー上重要な意味を持っていた。
ゲームクリアのためにシステムを利用することで、ストーリーの納得感が増すという相乗効果が発生するのです。ここが本当にFFVIIIの好きなポイントで、システムが分離したり独立していないというところが特殊かつ完成度の高いポイントだと思いました。

そして、パーティーメンバーの中にはG.F.をジャンクションしていなかったメンバー、アーヴァインがいます。彼はスコールたちに出会うまでG.F.をジャンクションしたことがなかったので、彼の記憶は保有されたままです。
その記憶により、彼は魔女の狙撃に失敗してしまいます。その理由は割愛しますが、初見では「いざというときに役に立たないポンコツキャラ」という認識が、記憶が残っているという事実、過去の関係が分かることで「失敗した理由がはっきりする、失敗も仕方ないキャラ」と印象が変わるのです。

この部分、まるで小説のトリックのような驚きであるのですが、何より粋なのはその事実はプレイヤーが後から理解すること。完全にキャラクターの印象をミスリードされながら、後から真逆の印象に変わる(後からプレイヤーが気付く)という仕組みに、思わず膝を打つ思いでした。



スコールとリノアの恋愛だけでない「愛」というテーマ - ラグナとスコール、ラグナとジュリア、ラグナとレイン、サイファーと風神雷神

このゲームのテーマは「愛」です。
それはもちろん、主人公のスコールとヒロインのリノアの恋愛ということでもあるのですが、一方でそこだけでは無いのがこのゲームの魅力です。サブのキャラクターにもスポットを当て、サブのキャラクターの人間性、人間関係を細かく、綿密に描写しているからこそ、ゲームとしての魅力がとても大きいのです。そしてそこには確かに、「愛」と呼べるほどの強い関係性があるのです。


ラグナとスコール

まずは、ラグナというキャラクターについてです。ファンの間でも人気の高い、お調子者ながらどこか憎めないキャラクターです。ある意味で、スコールに続く、二人目の主人公とも言える存在です。

彼は、スコールと出会う遥か以前から、重要キャラクターの一人・エルオーネの力によって、スコールの意識と邂逅します。

ラグナという人間がいる意識の中に、スコールが混ざる…。考えていることも丸わかりで、頭の中に同居しているような感覚です。
スコールの考えはまるで何も考えていないラグナに対する突っ込みのようでセリフとして面白いのですが、このラグナとスコールはゲーム終盤、邂逅することとなります。

成り行きとは言え国の代表となったラグナと、世界を救うため魔女と戦うスコール。この二人はそれまで、意識という中でのみ出会っていた…正確には意識を共有していた、のですが、最後の最後に初めて共同での作戦、作業を行うこととなります。

ラグナはどこか適当でありながら仲間や家族を大事にする。
そしてスコールは、あまり思いを口にしないものの、ここぞというときは他の生徒を鼓舞したり、責任を被ろうとする。
目に見える行動は違っていても、心の底では似ている二人。

そこまでなら、性格は違うものの実は心の通い合っている似た者同士のスコールとラグナ…なのですが、それが実は、ほんの数セリフで、より深い関係であることが示唆されています。

具体的な明言はされないものの、ラグナとスコールが「親子」であるということを示唆するセリフが、ゲームの終盤に示されます。
つまり、ラグナとスコールは家族、父と子なのです。

このセリフを初めて見たとき、一瞬頭に「?」が浮かんだあと、その意図を理解した瞬間、全く想像していなかったまさかの事実に気づき本当に驚きました。何より、そこまでそんな伏線がほとんどなかったのです。

当然、物語の印象も変わりました。ラグナはただの作戦指揮官としてスコールを見るのではなく、自分の子としてスコールを作戦に送り出すのです。
紆余曲折を経て、邂逅した二人。そしてその二人が、立場は違えど世界を救うために行動する。非常に熱い物語であるとともに、そこにはきっと…それこそ、ラグナから見れば、家族を見つめる、家族愛の物語でもあるのではないかと思いました。


ラグナとジュリア、ラグナとレイン - 「Eyes On Me」

初めて、主題歌がゲームに含まれたファイナルファンタジーこと、FFVIII。フェイ・ウォンが歌う主題歌「Eyes On Me」は、今でも語り継がれる名曲です。
そしてこの曲が、「ただの良い曲」で終わらないのが、FFVIIIの素晴らしいところです。

Eyes On Me自体は、ゲームの中で「ジュリア」というキャラクターが歌った曲、という設定になっています。
この「ジュリア」というキャラ、主要キャラクターの「ラグナ」の憧れの人であり、ゲームのヒロイン「リノア」の母親です。

過去、ラグナはジュリアに憧れ、兵士としての仕事が非番のときには、ピアノを弾いているジュリアのいるバーに足繁く通い、アピールしようとしつつもなかなかできず…という日々を繰り返していました。

ある日、ジュリアに気に入られたラグナは、ホテルの一室でジュリアと会話します。そこで、相談を受けるのです。曲の歌詞が書けない、と。

しかし、ラグナとの会話を重ねた結果、歌詞が書けそう、とのことに。

そのときのジュリアの、ラグナに対する印象が下の通りです。

実は、この会話の部分。この部分が、「Eyes On Me」の歌詞となっているのです。

ジュリアが、ラグナのことを思い、歌ったラブソング。

しかし、このホテルでの会話以降、ジュリアは二度とラグナと会うことはありませんでした。
ラグナは遠い戦場に飛ばされ、そこで大怪我を負い、命からがら脱出。以降は、ジュリアのもとに戻ることはなく、ウィンヒルという田舎町で生活をします。

その間、ラグナがいなくなったことに傷心していたジュリアを、軍のカーウェイ少佐が慰め、二人は結婚。ジュリアはリノアを出産しますが、その後交通事故で亡くなってしまうという、悲しい人生となってしまいます。

おそらくラグナがジュリアの部屋に誘われたことを妬んだこの上級兵が
ラグナを遠くの戦場に飛ばしたと思われる

結局、ラグナとジュリアはお互いを想いあっていたものの、離れ離れ。

ラグナは遠く離れた田舎町で、自らを看病してくれた「レイン」という女性と結婚することとなります。そして二人の間に生まれたのが、「スコール」なのです。

つまり、実はスコールの父親と、リノアの母親はお互いを想っていた、ということです。その部分はあくまで「プレイヤーが気付く」部分なので、ゲームとしては深堀りされていません。
そして、その想いあっていた二人…ジュリアがラグナのことを歌った「Eyes On Me」。二人の会話が歌詞になっている歌であるものの、結局二人は結ばれることは無かったのです。

ラグナを看病したレインから、ジュリアの歌の感想を聞くラグナ

しかし、それぞれの子供が、世代を超えて惹かれ合った、その物語を考えると、曲の印象もぐっと深くなります。

この人間関係はゲームを1周したくらいでは気づきませんが、しかしこういう事実を知ることで、聞き返したときの主題歌の印象すらも変えてくるのです。気づかなければ知らないままですが、気づくことで魅力が増す。曲を通じた素晴らしい仕掛けでした。

戦地に行って行方不明となった、ラグナ

やがて、スコールを出産したレインですが、結局若くして亡くなってしまいます。エンディングでの、ラグナがレインに指輪をはめてあげるシーンは、何回見ても泣いてしまうシーンです。

ラグナを中心とした、ジュリアとレインの物語、そしてEyes On Meという歌はスコールでもリノアでもなく、ジュリアがラグナを想って歌った歌であるということ、これはゲームを深くやりこみ、アルティマニアを読み込むことでわかる事実ですが、こういう事実を知ることでどんどん面白くなる、それがFFVIIIだと思っています。


サイファーと雷神風神

魅力的なサブキャラクターに恵まれているのも、FFVIIIの特徴であると言えます。

スコールのライバルであるサイファー。そして、その取り巻きである雷神および風神。彼らは幾度となく、スコールの前に現れては、その行く道を邪魔します。

ただ、正確には、魔女の騎士として立ちはだかるサイファーと、魔女を倒そうとするスコールの対立に対して、サイファーを仲間だと思っている雷神と風神がサイファーの味方になる、という構図が正しいものです。

そして雷神と風神、サイファーはスコールと同じ傭兵学校の学生でもあります。つまりは十代の少年少女の対立。サイファーに金銭などで雇われた味方ではない分、雷神と風神にもスコールと同じように、悩み、考えます。

そして、その結果がFFVIII屈指の名シーンへと繋がるのです。

ゲーム終盤、サイファーは重要なキャラクター、エルオーネを人質に取ります。エルオーネを取り戻しに来たスコールたちと対決…と思いきや、雷神と風神は、エルオーネを解放します。

仲間だと思っていた雷神と風神の行動に、サイファーは疑問を呈します。

それに対し、風神は初めて、サイファーに対して自身の意見を告げます。
それまで、特殊な喋り方(漢字のみで喋っていた)をしていた風神が、初めて普通に喋るシーンであり、「思いを相手に伝えたい」という気持ちが表現されているシーンでした。

それを聞いたサイファーは、雷神と風神へ、最後に一言残し、二人と別れます。

スコールのライバルとして、散々対立し、卑怯な手も使ってきたサイファー。彼が、自分を…ある意味では「裏切った」雷神と風神に対して言った最後の言葉が、逆ギレするでも、罵倒するでもなく「感謝」の言葉なのです。
いわゆる悪役ポジションである彼らにもドラマがある。悪役であるサイファーも、ただただ傍若無人なだけではなく、仲間を思いやる優しい気持ちが伝わる名シーンであり、そしてやはりスコールたちと同年代の悩める少年であることを実感する、胸を打つ瞬間でした。

そしてさらに心を打ったのが、エンディングムービーで彼らが登場するシーンです。
全ての戦いが終わり、全ての問題が解決した後に、相変わらずサイファー・雷神・風神の3人で一緒にいる姿を見れたこともそうですが、何よりサイファーの、憑き物が取れたような年相応の笑顔が見れるのです。
魔女、魔女の騎士、自身の思い、そういったもの全てから解放されたように、頭上を飛ぶ自分の母校を見つめる姿。
その優しい笑顔は、エンディングまで彼が見せなかった穏やかなものでした。
地味でありながら、心から感動したシーンのひとつでした。

スコールやラグナを中心に紡がれたFFVIIIですが、しかしこういったサブキャラクターそれぞれのドラマがあり、それぞれにグッとくる生き様、物語がある。間違いなく、FFVIIIの大きな魅力の一つです。



圧倒的なムービーシーン、圧倒的なBGM

初代プレイステーションでCD-ROM4枚組という超ボリューム。
それはゲームそのもののボリュームもそうですが、イベントシーンにおけるムービーシーンの豊富さにもあると思います。

当時、美麗なCMにてその期待度を極限まで上げていたFFVIII。
CMで使われているムービーシーンは、やはりその時代のゲームの中でも格の違いを見せつけるものでした。

特に、その魅力が溢れているのが「学園戦争」シーン。スコールの所属する学校と、敵国の学校が戦争状態に入った場面のことです。
敵国の兵士が、バイクに乗りロケットのように飛び、そしてそのまま襲い掛かってくるシーン。CMでも流れていましたが、このシーンはゲーム内の状況もあり、心が震えるものでした。

その他、魔女のパレードや月の涙、当然オープニングやエンディングなど、ここぞという場面でムービーが使われ、その美麗さは物語にぐっと夢中にさせられるには十分すぎるものでした。

そしてもちろん、ゲームを彩るBGMも他のシリーズに負けない美しさを備えています。

もちろんゲーム自体が好きだという補正もかかってしまっていると思いますが、FFVIIIの音楽は特にレベルが高いのではないかと思ってしまいます。

魔女をイメージする「Liberi Fatali」、SEED試験のムービー、学園間の戦争時に流れる「The Landing」、荘厳な雰囲気の「The Oath」、名曲と名高いラグナ編戦闘BGM「The Man with the Machine Gun」、街の名曲「Fisherman's Horizon」、とにかく好きな曲がいっぱいですし、どの曲を聞いても色々なシーンが頭に浮かびます。

特に、主題歌「Eyes On Me」のメロディーを用いた曲がいくつかあるのも良いなと思います。ゲームのテーマ曲として印象が深くなるとともに、歌が流れるシーンの感動を強くしている気がします。

そして、公式で発売されたアレンジアルバム「Piano Collections FINAL FANTASY VIII」もまた感情を揺さぶる素晴らしい出来なので、FFVIII好きな方にはぜひ聞いてみてほしいです。

映像も音楽も、大作RPGであることを圧倒的なクオリティで見せつけていたFFVIII。物語の重厚さを盛り上げるこれらの要素も、今でもずっと好きなFFVIIIの一部です。



「気づいたプレイヤー」のみが深みにハマる - 物語を演出するセリフや小ネタの綿密さ

FFVIIIの大きな魅力は、「いくつかの点を繋ぐと新たな設定に気づき、気づいたらそこでさらに魅力が増す仕掛け」にあると思います。
その仕掛けは、セリフや小ネタで巧妙に仕組まれており、気付いた瞬間にはもうFFVIIIの虜となるものでした。
いくつか、好きなシーンがあるので記載します。


「壁にでも話してろよ」

FFVIIIと言えば名言(?)のひとつに、「壁にでも話してろよ」という言葉があります。これは、スコールの教官であるキャラクター、キスティスが、指導力不足を理由に教官の任を解かれた…いわば降格、スコールと同じ一般の傭兵となってしまった、言うなれば愚痴を聞いたときの反応です。何か言って欲しいわけではなく、ただ聞いてほしかった。そんなキスティスの言葉に返したのが、この言葉です。

ひどい

このときはまだゲーム序盤であり、他人との干渉を避け、拒んでいたスコール。他人への思いやりも無く、辛辣な言葉を発しています。

しかし、その後。リノアに出会い、旅路を重ね、リノアを大事な人だとスコールが実感した後のこと。
スコールは、昏睡状態となり、ベッドに横たわるリノアに語りかけます。当然ながら、眠り続けているため反応は全く返ってきません。
そこでスコールが思ったのが、下記のセリフです。

「壁にでも話してろよ」と言った本人が、結果として壁に話しているような状況になり、無意味さ、虚しさを感じる。辛辣な言葉は結局、自分に返ってきたわけです。

そしてここから、スコールはリノアを回復させるために、リノアを背負い、途方もない旅路を歩いていくこととなります。つまり、「壁に話しているだけでは意味が無い」「言葉を発するだけではなく、反応が欲しい」そう思うようになったのです。
ここまで成長したスコールであれば、きっとキスティスからの話にあんな辛辣な言葉を返すことは無いでしょう。
対比されたセリフに気づくとともに、状況の変化からスコールの成長がわかる、非常に粋で好きなシーンでした。


「魔女の騎士」で繋がるラグナとサイファー

これも、非常に気づきにくいながら非常に面白い設定でした。ちなみに、アルティマニアにも同様の記載があるので、確定の設定です。

サイファーは、主人公のライバルでありながら、「夢」があると公言します。それは「魔女の騎士」となることです。

まるでアニメやゲームのような夢ですが、FFVIIIはそこにも理由を持たせています。

過去、「魔女の騎士」についての映画が存在しました。サイファーはそれを見て、魔女の騎士に憧れたものと思われます。

実は、その映画で魔女の騎士を演じたのが、「ラグナ」なのです。

映画撮影のシーンでは、スコールおよびサイファーの使用する武器「ガンブレード」を用い、ドラゴンの着ぐるみを対決…が、実は本物のドラゴンだった! という笑えるオチなのですが、重要な情報がこの場面には存在します。

この、「映画でラグナが演じた魔女の騎士」と、「サイファー」の、【戦闘時のガンブレードの構えが同じ】なのです。

フェンシングのように片手で剣を持つスタイル
サイファーも同じ構え

つまり、サイファーはラグナの出演する映画を見て、憧れ、ラグナと同じ構えでガンブレードを操るようになった。そしてサイファーの夢は「魔女の騎士」。ラグナとサイファーという、関わり合いの無さそうな(おそらくゲーム中会話を交わしたことは一度も無く、お互いの面識もないはず)二人でありながら、実は強く影響を与え/受けていた。この細かいネタの仕込みには驚きますし、何より気づいたときの「FFVIIIの底知れなさ」に身震いしました。さらに実は、スコールとサイファーの所属している傭兵育成学校「バラムガーデン」のおそらく学園内ネットワークにも、サイファーが魔女の騎士を調べていた、または好んでいたような情報があったりします。

「魔女の騎士(シナリオ版)」をリクエストしたのはおそらくサイファー

本当にちょっとした、チュートリアルやTIPSの一部、重箱の隅のようなところにまで伏線を張っているFFVIII、知れば知るほど、気付けば気付くほど面白いと、虜になっていました。


「RPGの主人公」よりも「十代の男の子」らしいセリフ

そして伏線だけでなく、年頃の男の子の等身大のセリフもまた、FFVIIIの魅力です。

下のスクリーンショットは、とある町における町長とのやりとりです。
戦闘を望まない町長の正論に対する、スコールの「心の声」です。

非常に反抗的で皮肉なセリフです。正論であり正しいとは理解することは出来ても、納得することは出来ず、呆れている心情が手に取るようにわかりますし、そしてそれを言葉に出さないのも、立ち回りをわかっている十代、という感じがしてとてもリアル、現実的です。

また、他にも、メインイベントからサブイベントまで、品行方正で教科書的な、いわゆる「RPGの主人公」「世界を救う勇者」感の無いセリフが色々な場面で出てきます。

「純然たるRPGの主人公」ではなく、責任は取りたくない、面倒事は避けたい、というまるで一般人のようなキャラクターとしてのセリフからは、「スコールも普通の人間なんだ」という親近感を感じられました。



ファンの心を掴んで離さない、「リノアル説」

現在に至るまでのFFVIIIの大きな魅力の一つ、そして今後も続いていくであろう人気の原因となっているのが、この「リノアル説」であると思います。
既に多くのブログ・動画などで解説されているのでそれらと重複しますが、改めて私も記録に残しておきます。

このゲームのラスボスの魔女「アルティミシア」。そしてこのゲームのヒロイン「リノア」
リノアル説はつまるところ、「リノアとアルティミシアが同一人物説」という噂、妄想、考察のことを指します。「最愛のヒロイン」と、「世界を滅ぼそうとする憎きラスボス」が、同一人物であるという説です。

とは言え、そのような事実があることが確定されるような要素は、ゲーム内では示されません。示されるのは、「もしかしたらそうかもしれない」という要素です。
それは、セリフであり、見た目であり、演出であり。様々な要素で「リノアル説と考えると辻褄があう」という要素が多すぎるのです。

そもそも、ラスボスのアルティミシアは「時間圧縮」を目的としています。時間圧縮が行われると、過去・現在・未来が圧縮され、時間という軸で常に変化している人間は存在が希薄になるとか…そういう感じです。
というのも、この時間圧縮の明確な目的(時間圧縮して人間を消してそれから何をしたいか)が、ゲームの中では描写されなかったような気がするのです。例えば、それによって世界を支配したい、作り直したいという意思があるのであればいいのですが、そういった表現もほとんどなかったように思えます。

では、何が目的なのか。
仮説ですが、それは「未来で魔女になったリノアがスコールに殺されるために時間を圧縮した」と考えられるのです。

ゲーム終盤、魔女として自身が暴れたときのことを、リノアはスコールに、下記のように話します。

「将来自分が人類の敵となったときは、スコールになら殺されてもいい」
そう、リノアは考え、口に出しているのです。

前提として、「魔女の騎士」という存在があります。
魔女は、魔女の騎士というパートナーがいることで、「良い魔女」でいられると言われています。魔女の騎士がいなくなれば、魔女は「悪い魔女」になってしまいます。
そして魔女は、基本的に死ぬことが出来ません。「魔女の力」を誰かに継承しない限り、死ぬことは無いのです。

仮定として、スコールがリノアのパートナーとなった、遠い未来。
ただの人間であるスコールは、寿命や事故、病気でいつかは死んでしまいます。一方で、リノアは魔女の力を誰かに継承しないと、死ぬことができません。リノアはパートナーを失い、一人きりとなります。

死ぬことが出来ず魔女の騎士もいないリノアが、誰にも魔女の力を継承せず、徐々に悪い魔女…例えば人間を殺す、世界を破壊する、といった状態になってしまった場合、そしてそんな状態でありながらも、「悪い魔女になってしまったのでスコールに殺されたい」と願い、時間を圧縮するのだとしたら…。
もちろんこの仮説は完全に妄想ですが、もしそうだとしたら…FFVIIIの物語、ラスボス戦の意味が大きく変わります。何も考えずただ倒していたボスがヒロインの未来だった場合、こんなにも悲しい話があるでしょうか。

そしてもう一つ、リノアは自身が魔女になってしまったことに恐怖を覚え、スコールにこんな思いを伝えています。

続いてほしい「今」が無くなり、欲しくない「未来」が来てしまったとき、そしてそのときに、続いてほしい「今」と「未来」が圧縮できる方法があるとしたら。

リノアがもし未来の魔女アルティミシアであったとして、もしこの思いが少しでも残っていたら。そして時間圧縮という行動に繋がったのだとしたら、それはとても切ない物語が存在する、という結論が導かれることとなるのです。


ループする世界

ラスボスを倒した後、魔女アルティミシアは死ぬために力を継承します。その継承する相手…それは、FFVIII開始時に、悪の魔女として存在するキャラクター「イデア」なのです。

つまりは、過去現在未来が圧縮された世界でラスボスを倒したところ、ラスボスが「過去の世界で魔女の力をイデアという女性に」力を継承するのです。
この魔女がゲーム序盤に登場する魔女です。この魔女はゲーム中盤で、リノアへと魔女の力を継承します。

時系列として考えると、未来の魔女アルティミシア→ゲーム序盤から中盤における魔女イデア→ゲーム中盤から後半における魔女リノア、という流れで魔女の力は継承されます。
そしてもし、リノアの力が継承されず、将来悪い魔女となり、時間圧縮を行いスコールに倒された場合…。その魔女の力は、時間圧縮された世界の中で、再び「イデア」というキャラクターに継承されるのです。

この仮説の中では、「イデア→リノア→(リノアが長い年月を経てアルティミシアという存在となる)→アルティミシア→(時間圧縮の中で現代のスコールに倒される)→過去の世界でのイデア」へと力が継承されます。つまり、永遠のループなのです。

実は、この仮説を認めると、FFVIII自体が永遠に終わることの無い、救いの無い物語のループとなってしまいます。
ここから先は私の中でも答えが出ていませんが、Youtubeでゲームを考察されているてつおさんの動画に、一つの解釈があると思いました。

つまりは、エンディングのムービーは「スコールに出会うことの出来たループである」ということです。
何度も何度もアルティミシアを倒すが、しかし時間圧縮によりリノアはスコールに会うことが出来ない。そして結局、ループは繰り返される。

よくよく考えてみれば、FFVIIIのOPは花畑でリノアが人を待っている様子が描かれています。しかし、エンディングは「スコールと出会うことで花畑が広がっていく」様子が描かれています。これはもしかすると、OPとEDは違う状態、違うループの世界線を描いているのかもしれない、という解釈に、最近至りました。

もちろん一つの解釈でありますし、このあたりはエンディング後の話なので当然、ゲーム中には解釈の手掛かりはなく、エンディングムービーなどから考察するしかないのが事実です。
しかし、リノアル説が正しいと仮定することで、その先の物語について考える余地が発生する。そして考える余地が発生した結果、ループする世界とループを抜け出した世界という仮説が生まれた。

結論は出ませんが、そんな、結論が出ないからこそ、いつまでも答えを探す楽しさや妄想が広がる、それもFFVIIIの楽しみ方、魅力であると思っています。


「はじまりの部屋」

ゲーム終盤、時間圧縮がされた世界。
スコールたちは、様々な場所で様々な魔女との戦闘を行います。
その場所のひとつ。リノアが魔女と対峙し、その後モンスターに襲われるリノアをスコールが助けに来た場所。
ここでメニュー画面を開くと、場所が「はじまりの場所」という名称で表示されます。

ここでメニュー画面を開くと…
場所の名前が「はじまりの部屋」と表示される

一体、何がはじまりだったのか?
ゲームの中で、リノアが「その言葉がはじまりだったの」と、「はじまり」に言及する場面があります。

では、一体なんの言葉が「はじまり」だったのか。直前のスコールの言葉が、これです。

つまり、「俺のそばからはなれるな」という言葉が「はじまり」だったのです。
それはスコールの心強さから、スコールを意識し始めた「はじまり」なのか、自身の未熟さに気づいた成長の「はじまり」なのか、仲間に頼ることを覚えた「はじまり」なのかはわかりませんが、なんにせよこの言葉が「はじまり」だったのです。

そして、その言葉を発した「はじまりの瞬間」が、下記のシーンです。

ここはつまり、最初のスクリーンショットで示した部屋です。
リノアにとって「はじまり」だったからこそ、時間圧縮の際にメニュー画面で場所を開くと「はじまりの部屋」と表示されるのです。

しかし、ここはゲームの中では魔女がいたシーンであり、リノアが魔女に接触を試みたり、モンスターに襲われた場所です。他にも場所の名前の表現はありそうなものです。
そんな中、表示された名称は「はじまりの部屋」
完全にリノア主体での名づけがされた場所となっています。例えば、「魔女の部屋」などの名前でも十分良かったはずなのに、「はじまり」という言葉にフォーカスがあたっています。

これはやや仮説のレベルが大きく、都合のいい解釈になりますが、「時間圧縮を行ったアルティミシアこと未来のリノアの記憶の中に残った、『はじまり』の記憶の部屋」だからこそ、はじまりの部屋という表現になっていると思います。
ここからも、リノアの記憶を保持している=アルティミシアは未来のリノアの姿ではないか、と考察できます。


スコールとリノアしか知らない事実「グリーヴァ」を、アルティミシアが知っている

ゲーム中盤、とあるスコールとリノアの間にとあるやり取りが発生します。
それは日常的な会話のようでありながら、少し違和感を覚えるシーンでした。

スコールの身に着けている指輪を借りたリノア。その指輪にモンスターのような飾り/模様を見つけ、何のモンスターか尋ねます。

スコールは、「誇り高くて強い、想像上の生き物『ライオン』」と答えます。

そしてなぜか、まるでキャラクターやG.F.のように、そのライオンに名前を付ける演出が入ります。実際に、プレイヤーが自由に名前を付けることが出来るのです。

このライオンおよび名前については、ゲーム中、1回を除いてどこにも出てきません。出てくるのはたった1度。「ラスボス戦」に出てくるのです。

ラスボスのアルティミシアはこう言います。
「お前の思う、最も強いものを召喚してやろう」
そして出現するのが、ここで名前をつけたライオンなのです。

ゲーム中での描写では、このライオンの名前を知っているのはスコールとリノアだけです。その二人だけの秘密を、一体なぜアルティミシアが知っているのか?
ここからも、おそらくですが「ライオンの名前を知っているリノアが未来の魔女アルティミシアとなった」可能性が考えられます。

もちろんこれも完全な仮説であり、「魔女なのだから人の心を読むくらい出来るのでは」という可能性もあります。
しかし、この可能性を否定するイベントが、ゲーム中に発生しています。

ゲーム中盤、スコールは魔女の騎士となったサイファーに捕まり、刑務所で拷問を受けます。その目的は、「スコールたち傭兵部隊(名称:SEED)の目的は何なのか」ということを吐かせるためです。

もし魔女が人の心を読み取れるのであれば、すぐに読み取り、SEEDの目的を知れば良い。しかし、そうせず、拷問を行うことで吐かせようとしているということは、読心術は使えない、と結論付けることが出来ます。
そうなると、一段と、ライオンの名前を知ることが困難になると同時に、その名前を知っているアルティミシアがリノアである信憑性が高まるのです。


黒い羽根、白い羽根

ゲーム中、リノアのイメージとして演出されるのは常に「白い羽根」です。一方で、敵の魔女は常に「黒い羽根」で演出されています。

これ自体はゲームの印象付けとしてよくあるもので、「リノアは魔女の力を継承したが良い魔女」「敵の魔女は悪い魔女」と視覚的にわかる良い区別だと思います。

しかし、この演出が反転する場面があるのです。
それが、ラスボスであるアルティミシアを倒したとき。

舞っているのは…

上記スクリーンショットを見てもらうとわかる通り、実は「白い羽根」が舞っているのです。黒く見えるのは逆光だからであり、実際に映像で見ると全て「白い羽根」なのです。
一体なぜ、この最も大事な場面で、「悪い魔女」の象徴でもある「黒い羽根」ではなく、「白い羽根」が舞っているのか。もちろんただの一つの演出ですので、詳しい根拠はわかりません。わかりませんが、何か意図を感じるとすれば、この魔女はやはり「未来のリノア」であるということを示唆しているように感じずにはいられません。


公式の反応

実はこの「リノアル説」については、スクウェアでFFVIIIのディレクターを行った北瀬さんが、公式に回答を行ったことがあります。

ここで、「リノア=アルティミシア説」は、公式に否定されました。
ファンの考察も、ここで止まり、熱も少し冷めることとなりました。

どれだけ考察が盛り上がっても、「まあでも、公式で否定してるしなあ…」という結論になっていたリノアル説、数年後に意外な形で復活します。

ディシディアファイナルファンタジーの特番での質問回答にて、北瀬さんが先ほどの動画での「否定」を「撤回」されたのです。

もちろん正式にリノアル説を認めたわけではありませんが、しかし要するに「シナリオを複数人で考えていたため、人によっては(特にFFXに「シンラ君」という名前のキャラクターを出した野島一成さんなどは)そういった思いを入れているのかもしれない」との回答を出されました。
公式が一度出した答えを撤回するという事態に、リノアル説はまた議論に上がることとなります。

とは言え、そのシナリオライター:野島さんが、海外のインタビューでリノアル説について尋ねられたときに「ファンの想像力の素晴らしさには驚く、自分のシナリオよりすごい」と答えている部分があります。つまり、リノアル説の想像力は凄いが、自身が書いたシナリオとは別物であるというようなニュアンスで捉えることが出来ます。

結果としてやや否定寄りなのが現状であると思いますが、しかしFFVIIIだけこんなにも、発売から20年以上経過しても考察が続けられ、リノアル説肯定派と否定派が世界的に盛り上がるFFVIII、私もずっと考え続けていきたいと思います。
個人的には、リノアル説はあると思っていますし、この説を知ってから、FFVIIIをより強く好きになりました。

はっきり公式に肯定して欲しい気持ちもありつつ、しかし濁されていたほうが想像の余地があり楽しめるかもしれないリノアル説、数あるゲームの中でも最も私を悩ませ、夢中にさせている考察であり、FFVIIIの確たる魅力のひとつであると思います。



終わりに

FFVIIIを思春期にプレイしてからというもの、23年経つ今に至るまでずっと心に傷跡を残す、生涯忘れられないゲームとなっています。
当時は賛否両論という評価になり、むしろ「FFほど強力なタイトルなのに賛否両論程度の評価になってしまった」こと自体が、FFVIIIというゲームがいかにもクソゲーと評価されたような気持ちで、私自身は好きな気持ちを抱えたまま大人になりました。

そして大人になった今、音楽関係、友人関係を通じて、FFVIII好きな人と知り合えています。
FFVIIIの発売は2月11日。建国記念日で祝日です。
もう数年前から、FFVIII好きと集まってFFVIII飲みを行ったりしています。

最初は居酒屋の個室でノートPCを見ながら行っていたFF8飲みも、最終的にはイベントスペース(マンションの1室)を借りて行うように。ホワイトボード、プロジェクターが備え付けで置いてある部屋で、10時間くらいお酒を飲みながらFFVIIIを話す時間は本当に幸せで、ずっとFFVIIIを好きでよかったな~…と思う瞬間でした。
コロナもありここ2,3年開催出来ていないので、また色々落ち着いたらやりたいなと思っています。

色々な人と話していて思うのは、どの人にもFFVIIIは思い出の作品であること。性格・異性の好み・進路など、様々な影響を与えた作品となっています。

私も、それこそ小学校6年~中学1年の一番多感な時期にプレイしたため、スコールの「いつか別れてしまうなら最初から仲良くならなくていい」という言葉に「確かに…」と影響されたのを覚えています。一言一言、セリフが芯を突いているようなゲームだから、そして共感できるようなセリフだからこそ、自分と重ねてしまうんですよね。

そしてしっかりと覚えているのが、宇宙で絶対絶命な状況から飛空艇ラグナロクを見つけ、なんとか生き延びて、ほっとした瞬間での「Eyes On ME」。
当然、今ほど物語やスコールとリノアの関係を理解できていたわけではありませんが、ゲームをしていて初めて目に涙が浮かんだのを、昨日のことのように覚えています。

このゲーム、発売当時は賛否両論でありましたが、一方で「年を取ってからもう一度プレイ/実況動画を見てみたら、物凄くいいストーリーだった」という声が多いように感じています。

私も、思春期にプレイしたときの印象と今プレイした印象は、大筋では変わらないものの、細かいセリフが当時よりも胸に刺さるものがあるように感じます。

名作であることは間違いないですし、心に深く傷跡を残しているこのゲームを、5年後、10年後に改めてプレイしたときの印象がどう変わるのか、今から楽しみで仕方がありません。
きっと生涯ずっと好きなままのゲームだと思いますし、この自分の人生に影響を与えた素晴らしいゲームとして、ここに記録を残しました。
それはきっとひとつのエンターテインメントであるとともに、自分の人生の指針のひとつとして、心の支えとして今後も自分の中にずっと残り続けるものであると思います。今後もずっとスコールに憧れ、リノアに憧れ、リノアル説を考察し、エンディングに涙する、そんな日々を過ごしていくのだと思います。

改めてこの記事を書いてみて23年経っても…、いや、23年経ったからこそ本当に心から、最高のゲームであると実感しています。
これからもずっと、FFVIIIから学んだことを胸に秘めて生きていきたいともいます。


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