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結婚。出産。

波瀾万丈の中、

意に反した状態で実父の家で

重度訪問介護

を利用しながらの生活がはじまった。

しかし、実父の再婚相手との生活に耐えられず

1ヶ月が経過した頃、

飛び出し、一人暮らしを決行。

この時の無茶振りに時間数を下ろしてくれた

役所や奇跡的に翌日にバリアフリー物件がみつかったことなどは奇跡の連続だったとおもう。

そして、

24時間ヘルパーさんとの生活がはじまった。

楽にみえて、これがまた楽ではない。

どこかでずっと気を遣っている。

時にはヘルパーさん同士の不満を聞くこともある。

ヘルパー事業所の揉め事で色々なことが起きたりもした。

新しい人が入ってくるたびに一から色々なことを教えなくてはならない。

苦手な相手でも、何時間も一緒に過ごす。

時にはその時間は10時間を超えた。

コロナもあって中々、外出もできない。

友達と会う時もヘルパーさんが一緒。

段々とそれはそれで私の中で重荷になってきた。

そんな時、

思いもよらないプロポーズをされた。

正直、病気になってからというもの

恋愛も結婚も諦めていた。というより、

考えもしなくなっていた。

ただ、自分がカラダを使って感じたこと、

誰かの役に立てることがあるなら、

言語聴覚士という資格とこの経験を元に何かをしたい。

それだけを考えて生きていた。

連絡をとりあったり、

極たまに会う友達は、友達、そして世間を教えてくれる存在でしかなかった。

そんな中でのプロポーズ。

正直、えっ?と開いた方が塞がらなくなった。

でも、自分自身に恋愛をする気は特になかったし結婚をする気もなかったので、

一緒にいてほしい。と言われた時は困惑した。

迷惑をかけるだけの存在になるのではないか?と。

でも、その熱心さに

私も幸せを求めていいのかな?と

ヘルパーさんとだけの生活。

親だけに頼り続ける生活。

ではなく、自分の居場所を自分で作っていいのかな?と思うようになった。

そこで、1年付き合ってみてそれでも私の体調不良や色々なこととぶつかってもその想いが変わらないなら。と返事をした。

そして、条件として私は今の生活圏内からは動かない。動けない。ということも。

重度訪問介護制度は市区町村によって理解度や支給時間などが大きく違う。

指定難病ではない私がこんなにも充実した時間数、理解を得るのには他の地域で一からやるのには考えられないくらいの負担だったからだ。

そして、この病気を診てくれる先生も数が限られている。

だからこそ、生活圏内だけは譲ることができなかった。

ただ、彼の仕事の都合上、

本来なら彼はプロポーズされた翌年の4月には

転勤する可能性が高かった。

転勤してしまえば、今の地域に戻ってくることはほぼ有り得ない。

そして、

結婚相手の私が障がいを持っていて介助が必要なこと。を満たせば転勤免除が認められるのだった。

その申請のタイムリミットまでがおよそ2ヶ月。

悩んだ。

でも、この先プロポーズされることがあるだろうか?

こんな風に言ってくれる人がいるだろうか?

とふと思った。

もし、失敗したとしても私に失うものはない。

結婚して幸せになれたら、それは得るものしかない。と思った。

そう思ったら、私の性格上猪突猛進。

1ヶ月の同棲をして、

一緒にやっていけるかを決める。

そう決めて、同棲をスタート。

そして、結婚をした。

結婚をして、1ヶ月2ヶ月と経ち、

私のために一生懸命になってくれる姿をみていて

たくさんのリスクを抱えている私が

彼よりも先にいなくなる可能性は高い。とおもったとき、私は彼に何を残せるのだろうか?と思った。

ふたりで一緒に笑い、一緒に泣き、

成長をみた子どもだけが私が残してあげられる唯一のものではないか?と。

当時の主治医に相談した。

いつ癌になるかわからないからこそ、

できるだけ早めに子どもを産みたいと。

国内での症例報告は論文をどれだけ調べてもない。

海外の論文も僅か2つ。

同じ病気でも私とは型が違うもの。

無謀なチャレンジに近かった。

でも、リスクを覚悟して一時的に服薬や注射をやめて妊娠に望みたいと先生と計画を立てた。

にも関わらず、

ある日。ふと、あれ…いつものが遅れてる?

しかも、なんか体調がなぜか良い。

海外の論文で妊娠中は一時的に症状が改善するとの報告もあり、慌てて検査をした。

結果は…

陽性。

あまりにも予想外だった。

当時、服薬していた薬の中には

副作用で妊娠しにくい、流産しやすいものが

入っていたからだ。

ようは、低用量ピル的なものを常に飲んでいたようなものだった。

ただ、授かったからには何がなんでも産む。

それが、私の覚悟だった。

とにかく、担当の薬剤師さんに電話して

飲んではいけない薬を確認。

その時に言われた一言は…

え!?この薬飲んでて、ほんとうに!?

だった。

そりゃ、そんな反応にもなる。

私自身も混乱したんだから笑

翌日には主治医の元に行き、説明。

そして、産婦人科受診。

初期流産の可能性が否定できないとか、

障がいを負って生まれてくる可能性がある。

とか、色々言われたけど

そもそも、出産をしたいと主治医に相談した時点でそんなものは覚悟していた。

特別な検査をするつもりもなかったし、

ただ、できる限りリスクになる薬は

自分が多少苦しくても辛くても減らす。

それだけは決めていた。

けれど、それもそう簡単にはいかず…

途中から発作の嵐になり、

薬は元通りになった。

心配はただ一つ。

全身麻酔での出産。

鎮静がかかる薬を大量服薬している中での出産。

無事に呼吸してくれますように。

人工呼吸器に、一時的にのるかもしれません。

それも前もって説明は受けていた。

たとえ、呼吸器にのっても自分で呼吸ができるようになりますように。

それだけを祈って…

波瀾万丈の妊娠生活を送った。

37週6日。

予定帝王切開にて

2715gの男の子を出産🤱

全身麻酔から目が覚めた私は全身薬切れで、

指一本も動かず、

ただ無事に出産おわりましたよ。とのひと言を聞かされただけ。

出産から3日目。

ようやく、指が僅かに動きLINEを開いて

夫が毎日面会に行っていることを知る。笑

そして、我が子が人工呼吸器にも載らず

自分で産声をあげられたということも。

出産から4日目の朝。

まだまだ動かないカラダを無理やり車椅子に乗せてNICUへ。

我が子と初対面。

特に大きな問題なく元気ですよ。と

聞いてたものの、

言語聴覚士として我が子を見た私は

やはり、異常な脱力、傾眠、そして呼吸の不安定さ、哺乳の低下。などなど

離脱症状を目にした。

これがどれくらいで良くなるのかははっきりわからない。

先生は1週間もすれば良くなりますよ。

とは言っていたけど、そんな根拠はどこにもない。

だって、世界で症例報告ないんだから。

でもね、哺乳の力は弱いし気をつけてあげないとミルクの途中で呼吸忘れちゃうけど、

出生から10日目。

母子共になんとか退院しました!

今の主治医に言わせると、

妊娠中の管理入院なしで無事だったことも奇跡だし、出産後10日で薬だけとりあえずいれて退院してなんとかなってたことも奇跡だよ!

らしいですが…笑

そんなこんな、

妊娠中の裏話はまた別投稿で載せようかな?🧐

ひとつ、言えるのは人に恵まれてたからなんとかなった妊娠生活🤰!

そして、奇跡の集合体🌟



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