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食事と心理


1、社会の流れと味の変化

 人類が社会を形成し始めた頃、その単純な社会で受けられる利便性と受けなければならない制約も単純なものだったことは容易に推察されます。
 利便性に着目すると、道具が開発され、制度が整うにつれ利便性は高まります。このことによって人の自律的な緊張感が和らいでいくことは多くの人が実感することではないでしょうか。それは甘いものを食べている時のような幸福な心理状態かもしれません。そして現代人の一定の人が「甘いものは別腹」と欲求を抑止できないように、徐々に利便性の高まっていく社会に心理的に依存していく姿も容易に想像できます。

 制約に着目すると、社会が大きく複雑になるにつれ制約は増します。これにより、自意識は内面で相対的に増大します。それはまず、大きく複雑化した社会は情報として取り込まれ記憶されます。しかし記憶され続ける情報の量と質に対して理解が追い付かなければ、自己の存在感は相対的に小さく感じられてしまいます。これにより、心理的な反射として、或いは物理的な反射と言えるのかもしれませんが、自己を大きくさせようとするからですね。つまり、不安と恐怖は無知から生まれ、自己の中で理解できないものが増え続けることが、私たちの存在感を小さく不安定にさせ、私たちは闘争心と競争心を掻き立てられるのでしょう。

 食材にひと塩すると食材の持ち味が引き立つとよく聞くのではないでしょうか。つまり塩味というのは存在にエッジを利かせる効果を発揮するわけです。エッジを輪郭と言い換えても良いと思います。社会の中で自己の存在感を認識するには自意識という塩味が必要なのだと思います。

※詳しくは塩味による舌筋と舌周辺の筋肉の動きと心理作用の記事をご覧ください。

 これは一例にすぎませんが、このように社会から受ける心理が味の種類や濃淡の欲求と関係しているであろうことを踏まえると、日本社会では利便性と制約の増していく緩やかな時代の流れとともに、人が好む味覚(塩味と甘味)は料理に多用され濃い味付けがなされてきたのだと考えられます。

 特に、戦後の大幅な人口増と高度経済成長期を経て、人と物事は使い捨てにされるほどに過密となり、その中で個人の存在は埋もれてきました。その時代を生きてきた私たちは何者かが刻んだエッジ、つまり流れゆく社会が時折見せる象徴的な断面に惹き付けられ、其れに感じる好悪と善悪に係わらず、その記憶と闘ってきたのかもしれません。
 
 


2、社会感情は自然の味

ここで言う道具と制度は知性によって人類が作り出してきたものであり、制約もまた知性による副産物です。
 社会が作られた要因に自然の脅威があるとするならば、自然の仕組みを解き明かす科学は自然の知性そのものであり、科学を応用し道具を作り制度を整えることは自然の知性を社会に取り込んでいることになります。

 これを一般的な人の心理で例えると、
 夏休みに沢山の宿題を出され自由を制約されると多くの人は苦々しい思いになります。そして社会が生み出した道具である学問を積み重ねていかなければ大学生になれないのかと想像していくと冷やりとした脇汗を流すでしょう。つまり、道具や制度に憶える空間を網羅する逃れがたい印象や冷たく軽薄な印象を味覚に変換するならば酸味に相当し、これは自然の中での生活にも存在する感覚。制約に憶える空間のみならず時間までをもじわじわと拘束される印象は苦味に相当し、これも自然の中での生活に存在する感覚だと考えられるのです。

 これは酸味が舌に与える瞬間的に拡がり消えていく動き。苦味が舌に与えるゆっくりと拡がり長い余韻を見せる動きに特徴が似ているからです。もちろんこれは制約や道具との関係がある程度単純化されている場合であり、また私たちの食卓にのぼる普段の食事の味付けの場合です。ですので、苦味を楽しめる人は社会の制約を理解して受け入れている状態であり、逆に苦手な人は制約に対する理解が乏しく自意識が満たされていない状態か状況なのだと思います。
 選んだ料理に対して何故それを選んだのかと理由を尋ねた時に、「そういう気分だから」といった答えが返ってきたり、頑張った後には甘いものが食べたい気分になったり、食事の後にコーヒーが飲みたくなることは、その選択と欲求が体の内部環境の状態のみならず、外部環境にも心理的影響を受けていることが分かります。

 一般的な社会感情に照らし合わせると、道具を生み出すことは喜びであり、普及することは楽しみに相当するのではないでしょうか。
 一方で、私たちは道具を使うための努力には不安を憶え、そこにある様々な制約に恐れを抱くのではないでしょうか。


3、現代の食事と伝統的な食事

 現代では糖質ダイエットや減塩という言葉を頻繁に耳にしますが、何故、塩味や甘味を摂りすぎてしまうのかを考えると、複雑で高度になる社会に対して人の知性や身体性の変化が追い付いていないからでしょう。

 一方で、これまでの日本人の食事が薄味であったことや質素な内容ながらも生きてこられたのは、未熟な社会、利便性に乏しく制約の緩い社会であったことが心理的に関係しているのだと考えられます。今ほど競争性の高い社会ではなく、今ほど外部環境に動きの多くなかった時代は人の意識は今を生きる人よりも多くの内向する時間を持っていたと考えられます。それによって、自分の心身を観る時間を持ち、食事もゆっくりと味わい食べたのだと想像できます。その習慣が体の内部環境の恒常性を維持する自律神経系の副交感神経の活動を高め、質素な食事内容を充分に消化できる要因になったのではないでしょうか。

 伝統的な京料理は一見煌びやかに見えるものの、同時に古臭い料理でもあり、このような料理に快を得る人たちは、きっとその習慣を持っておられるのかもしれません。
 しかしながら、社会が成熟し、生まれながらに激しい競争と制約に晒されてきた中年以降の若い世代の多くはその習慣を持たないのでしょう。彼らは汗を流しながらラーメンを食べ、制限時間と競争しながら肉を食べ、少しでも多く食べようと闘っているのです。そしてキンキンに冷えたビールと強炭酸のハイボールを舌に浴びせ痛覚と温覚を刺激し、その温冷の幅の中で動きを付け、自己の存在を確認するのです。彼らは、本来「消化と休息の反応」と呼ばれる副交感神経の活動を高める時に、交感神経を高め、「闘争と逃走」を繰り広げているのかもしれません。その姿は、冷たい海水の中で餌となる小魚を休むことなく追い掛け、丸呑みし、一網打尽にし、身を紅く染め、深紅に燃え滾らせる鰹なる者です。

 平和な時代であれば、生まれの遅い人ほどより成熟した社会を生きることになります。それは道具や制度がより複雑で高度なものになった社会です。そして同時に高度な知性と自律(理性)が求められる社会でもあります。その為、社会がその存在の循環をゆっくりと流れるものにしたいのであれば、ゆっくりと育てなければならないのです。そうすれば、社会という一つの循環はより大きな円を描き、より成熟したものになるのです。

 道具や制度を使いこなせない状態の時、人は制約を感じるでしょう。それは自己の存在感が小さく弱まっていく感覚を伴います。そして人は欲求として、無意識に自意識を増大させるのです。その時彼らは食事により多くの量を求め、味に強い塩味と辛味(塩味の上位互換。一般的には痛覚・温覚に分類)を求め、より強い刺激を浴びるのです。自意識の増大した彼らは、相対的に小さく見える他人に塩対応をするかもしれません。また先鋭化した人は倫理と道徳を破り、法を犯すかもしれません。しかし社会はより磨かれた法と制度で彼らの動きを封じ、関係性の中で抑圧します。それにより息苦しくなった社会で過大な目標や欲求を持った人は自信の無さからそのエネルギーを行動で消費できず、眠れない夜を過ごしているかもしれません。また、成熟した社会の高度な利便性に依存していく人は食事においてより多くの甘味を取り込んでいくでしょうし、社会と他人の優しさに依存していく姿が目に浮かんできます。

 私たちは社会の循環の中で養ってきた、人との競争、社会との闘争のエネルギーを、今の高度情報化社会にあって、自然と社会と人が持つ情報を解明することに向ける時を迎えているのでしょう。

 反転とも言えるこの方向転換に充分に適応するために、私たちは今しばらくの間、頭に入り込んでくる情報を少し制限し、心に入り込んでくる人との関係性に整理をつけなければならないのだと思います。そしてこれは、食事においてはより強い刺激を求め続けてきた流れから、四つの味(塩味・甘味・酸味・苦味)と六つの栄養素(タンパク質・糖質・脂肪・食物繊維・ビタミン・ミネラル)をバランス良く摂取していく方向に切り替えることになるのではないかと思います。
 
 伝統的な食習慣と伝統的な日本料理にはこれらのことが構造として組み込まれています。そして伝統的な京料理には味と栄養素だけでなく、形と色と流れにおいても、人と時と空間に洗練され記憶されています。私はこのことを今一度皆さんに知って欲しいのです。




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