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かつお思考                     


①、「鰹出汁ってどんな味? 」と聞かれて皆さんは上手く答えられますか?


 
 私が京料理の業界で修業し始めた季節は春でした。その頃の話をしながら鰹出汁について考えてみたいと思います。ここでは鰹節の味ではなく、香りについて見ていきますが、味にも香りと同様の感覚作用があると思っています。

 自分の持ち場で一生懸命に仕事をしていると、決まって営業開始の直前に鰹節のいい香りが漂ってきました。その時間帯は煮方で料理された筍の炊き物がバッカンに入れ替えられて、八寸場のホットプレートの上で保温され、いつでも盛り付けられる状態になる時間帯です。

 八寸場とは懐石料理の八寸を盛り付ける持ち場です。器の形は様々ですが、八寸四方の大きさの器に多種類の細々とした旬の料理を盛り付けます。


半月の形をした八寸

 筍はお昼時の、懐石弁当の小鉢に盛られ、若竹煮として若布や蕗、木の芽を添えて提供されていました。当時、私は新人ですので張り切って目の前の仕事に集中していましたが、八寸場から漂ってくる鰹節の香りに無抵抗に酔い痴れました。包丁仕事を覚え始めたばかりで、葱などをキッとなって集中して切っていても、漂ってきたその香りは胸の隅々にまで入り込んできて、私の胸をはち切れんばかりに押し広げたのでした。

 その香りは私を充足感と飢餓感の差し迫る緊迫した感覚にさせ全身を痺れさせました。言い替えると、意識が覚醒したかのような感覚を憶えたのです。本職でない方は充足感と飢餓感の差し迫る緊迫した感覚などと言われると疑問を呈されるかもしれませんね。しかし私は指の腹まで痺れていたことを今でも思い出せます。

 鰹節の香りはその鮮烈な爽快感によって、鰹節というものの理解を何となく分かった感覚にさせますが、言葉にするためによく考えてみると案外難しいのです。当時私は訳も分からないまま、首の後ろの辺りの筋肉がぎゅるぎゅると音を立てるようんに弛緩して眠くなったものです。

 出汁を取る際にも同様に感じたものです。その時の感覚を上記とは異なった言葉で表現してみます。
 昆布を取り出して鰹節を鍋に入れていく時です。出汁の取り方を覚えようと、煮方(煮物・蒸し物などを担当する持ち場)の職人さんの仕事を盗み見していました。職人さんは大きな手で鰹節を掴むと、零れないように鍋に入れていきます。
 一日に100人前後の来客がある店ですので鰹節の分量も1キロ程は入れたのではないかと思います。



右が花かつお500グラム入り、左は鯖、鮪、飛び魚などの混合削り節1キロ入り



 昆布出汁に浸かった鰹節は暫くの間はこんもりと浮かんでいます。そして立ち上る湯気でゆらゆらと体をくねらせては、反射光をきらりとちらつかせて沈んでいきます。その儚く美しい光景に目を奪われていた私はうま味と酸味の入り混じった爽快な香りに一気に包み込まれました。そして一瞬にして胸が一杯になったのです。始めは、なんて清々しい気分だろうと思いました。体の芯から力が漲ってきて理由もわからずに気持ちが大きくなったような気分になりました。ところがどういう訳か、暫くすると体を動かすことが億劫に感じられたのです。疲れを感じただけでなくやる気までもが何処かへ飛んで行ったような気分になったのでした。

 私はそこに長年無意識に疑念を抱き続けてきたものの、よく考えることもなく過ごしてきました。飲食業の忙しさにかまけてこの感覚を知る行動を取ってこなかったのです。ただ何となく、昆布に比べると鰹はとても分かり易い存在だと思っていました。そして正確に言うと分かっているつもりだったのです。では何故、私は鰹節に対して抱いた淡い疑問に向き合うことができなかったのでしょうか。

 それでは話を八寸場の盛付けの場面に戻し、更に、先程の二つの例とは異なった言葉で表現してみます。
 三つ切りになった懐石弁当の左端に小鉢が収められて、八寸場を務める先輩が手の平に木の芽をのせて、パンっと手を叩きます。香りを引き出された木の芽が若竹煮の小鉢に順に盛られていきます。木の芽の鋭角な爽やかさと鰹節の力強い爽快な香りが合わさって私の持ち場まで迫り来るように運ばれてくるのです。そうすると、目の前の光景が鮮やかに攫われて、無垢で純真な世界が現れたように感じました。
 
 自分が感じたことを多角的に見詰め、鰹節の香りを突き詰めていくと、「熟成された血肉の新鮮な香り」に尽きるのではないかと思います。そう思うと、鰹節には肉に含まれるうま味の「熟成」と血に含まれる酸味の「鮮度」という相反するものが同居していると理解できるのです。

 私がnote.で初めて投稿した記事「四大味覚の舌筋の動きと心理」において、私はうま味を甘味の上位互換と位置付け、その動きは空間的には狭く深く、時間的にはゆっくりと感じられ余韻を長く残すとしています。そして酸味は空間的に広く浅く、時間的には早く感じられ後味にキレを感じさせるとしています。

 ここに対照的な動きがありますが、うま味も酸味も自律神経系の交感神経を優位な状態にすると考えています。交感神経は痛みや精神的興奮の場合に活動が高まるとされています。交感神経の活動が高まると、「体の活動に適した状況」がつくられるとされており、この生体の反応を「闘争または逃走反応」と呼ぶそうです。豊潤なうま味と酸味のある香りによって精神的に興奮し、交感神経の電気活動が急速に高まったことが体の痺れとなって表れたのではないかと思うのです。ただ念の為に言っておきますと、あくまでも私が「思う」だけです。
 付け加えると、鰹節の香りや味わいは「うま味がキレる動き」、或いは「鮮烈な動きを見せるコク」によって憶える爽快感と言えるかもしれません。またキレとは感じるスピードが早く、余韻を残さない動きを表しています。

 そう思うと、鰹節の香りが漂ってきた時に私の無意識下で生じた小さな疑念を一瞬で吹き飛ばすこの爽快感こそが、私の意識から鰹の確たる存在感を一切の未練を残さずに忘却させていたのではないかと思うのです。

 感覚を刺激され、驚き、前場面を忘却し、「今」に新鮮さを憶える、という流れです。
 


②、鰹なるもの


 さて、先述までの内容で鰹は分かり易いものであると感覚的に分かって頂けたかと思います。
分かり易いとは、表象の情報が合理的で理解し易いということです。具体的であるとも言えます。頭で考えて理解する必要がなく、感覚的に理解できるということですね。味や香りがはっきりしている。伝わる時間が早い。気分がはっきりと変化する。これらは鰹節が合理的な食材であることを表していると思います。そして、鰹節の香りを嗅ぎ、味わうことは鰹節の合理的な感覚(情報)を体に取り込んでいるのだと言えると思います。何故なら、先述した修業時代の私は香りを嗅いだだけで瞬時に心が満たされ、力の漲るような感覚になりましたし、また、交感神経の活動が高まるということは外部環境に即座に対応できる臨戦態勢を整えることだからです。体や感覚の動きは心理にも影響すると思っています。

 鰹節から得られた精神的興奮とその感覚的な力強さは自分の存在をより強く感じさせてくれます。自分に自信がある感覚というのでしょうか。皆さんも合理的な料理を口にした時、そのような感覚になるのではないでしょうか。そのような料理を鰹なるものや鰹なる料理と呼んでみます。
 定義としては以下になります。

  1. 自律神経系の交感神経が優位な状態で快を得る料理や物事

  2. 知性によって判断しやすい一般化された或いは習慣化された料理や物事

 定義に当てはまるものは個人差があり、また個においても状態に影響を受けます。

 ここでは便宜上、多くの人が当てはまると思う一般化されたものを例に挙げてみます。例えば、ラーメン、回転寿司、ハンバーガーなどの大衆的な料理です。海老カツなどを挟んでタルタルソースなどで味付けされたハンバーガーなどを口に入れ、嚙んだ時、そのぶりっとした力強い食感と味に、「これ、これ、これが食べたかったんだよ」と力強い満足感を得るのではないでしょうか。こう言った料理はテレビコマーシャルに盛んに流れていますが、その中でそれらを夢中になって食べている人は皆一様に笑顔になっていますし、また、大袈裟に表現されているのかもしれませんが目を大きく見開き、体を躍動させています。まさに交感神経の活動が高まっていることが分かります。つまり、お客側にとっては定義の1と2の両方に当てはまります。

 鰹なるものの代表の一つはこれら上記のファストフードです。逆に店側から見ると、これらは定義の2に当てはまります。食材は合理性によって無駄が省かれ、最小限の選りすぐられたものだけが使用されています。味付けはターゲット顧客ならだれが食べても一瞬で感じられる適切な強さと濃さになされています。そして料理時間も合理的に短縮されています。これらは一般的な人に向けられた料理であるため、一般的な感覚がレシピとして情報化されているからです。

 もう一つは、例えば大間産本鮪の刺身や寿司、A5ランクの黒毛和牛のステーキなどに代表される、ブランド化された食材を使用した料理です。

 ステーキを焼いている光景を見ていると、その料理はいかにも簡単そうに見えます。しかし、実際は温度管理や熟成具合を見極める力が必要だったり、牛の目利きや仕入れ先の選定、もちろん焼き加減も重要だったり、お客さんの食べ具合を見て料理のタイミングを計ることも重要であり、難しいものです。ただ、経験を積み、必要な調理器具を揃え、確立された料理方法を正確に実行するならば多くの人にも真似ができるのではないでしょうか。
 
 この料理において、本当の意味で最も難しいのは美味しいと感じられる牛を育てることです。何故ならば、自然を相手にしなければならないからです。息せき切って具体的なことばかりを追いかけている現代人にとって、広く深くゆっくりとした動きを見せる、自然という概念の大きな存在を相手にすることほど難しいことはありません。

 このステーキのように職人としての技量よりも、食材を生産することの方が難しい料理は、職人にとってもお客にとっても合理的な料理です。それは料理に係る様々な物事と、料理に対する理解が合理的な情報体になっているからです。お客にとってはテレビをつけても雑誌を開いてもいつもそこにある料理です。つまり知っている料理であり、間違いなく美味しいのだろうと想像できる料理です。そして食べると確かに美味しいのです。

 そういう意味でブランド化された食材を使う豪勢な料理はファストフードと構造に類似するものがあると言えます。よだれが垂れてくるようなこのような料理を前にして、生産者の厳しい仕事に思いを馳せる余裕は私たちには中々ないのではないでしょうか。「大変なのだろうな」という感覚や言葉が頭に浮かんだことのみで思いを馳せた気になり、きっと目の前で焼かれる美味しそうな音や見事な手捌きに目を奪われて、供される前から目と頭で味わい、早く食べたいと心は急いていることでしょう。二十四時間、休む間もなく、泳ぎながら寝るという鰹のように心は前へ、前へと急いているはずです。そして、合理的に最短の時間で提供されたステーキを舌の上にのせて、

「溶けたぁー」

と反射的に快を体で表すのです。
 つまり体性神経系の目に見える反射を得るわけです。それはお客の噛む工程を省けるほど合理的にできた、見事な刺しの入った肉だからですね。そして同時に、作り手側もお客が満足したことを瞬時に確認できるのです。いえ、既に分かっていたのです。
 そういう意味において、鰹なるものとは社会の中で人が育んできた確かさと力強さを受け身で感じられるものと言えるでしょう。



③、自己の存在の認識


 これらの鰹なるものは、その料理の構造に、食材や味の組み合わせの複雑さ、生産や料理工程の複雑さがあろうとなかろうと、食べた人の無意識に或いは意識上に自己の存在が大きくなった姿を映し出してくれます。

 日常生活の疲れた時に時々口にするならば、これは効果的な大きな活力源になります。そして鰹なるものを欲求することは目まぐるしく物事が増え続けている不確かな現代社会を確かに力強く生きていける感覚にさせてくれる原動力となるでしょう。

 何かを頑張った自分へのご褒美に鰹なる料理を食べる人はおられるでしょうし、事業を起こし拡大しようと試みておられる人でしたら、何か一つ成果が上がった時、会社の従業員に美味しい料理を振舞うために料理店に行かれることもあると思います。その美味しい料理とは多くの場合、焼き肉、寿司、高級料理など、その価値が一般に浸透した鰹なる料理ではないでしょうか。その時、従業員に今後も成果を出し続けることを期待するのではないでしょうか。もちろんそこには心からの慰労と感謝の念もあるでしょうが、きっと美味しい料理=鰹なるものの効果にも期待するものもあると思うのです。

 一方で、鰹なるものを口にする頻度が上がるにつれ、主観の世界の中で自己の存在感は不相応に増大し続け、やがて無意識の内に人を傲慢にさせ依存へ陥らせていくことがあるのではないかと思います。それは理性や内省の習慣が乏しい人ほどその傾向があるように思います。

 成果を出し続けている過程で溜まったストレスを立場の弱い他人にぶつけたり、成果を出せない人を見下してしまったり、或いはそれらの行為をする自分の変化に気付きながらも自制することができなかったりと、このような状態を多くの人は経験しているのではないでしょうか。

 高級な料理を頻繁に食べている人が、そのような料理を滅多に食べない人の味覚や所得などを貶す。料理の美味しさを良く知っていると自負する人が料理に点数を付ける。これらは正に傲慢さが表れたものではないかと思います。主観はあくまでも自分の世界です。その主観が社会的に影響力を増すにつれ、人はそこに傲慢さを感じるでしょう。

 食事は本来、挨拶をして頂くものです。手を合わせ、目を瞑り、頭を下げて頂いたものを評価する矛盾に気付かないのは、意識が主観に占められているからです。そしてその主観の中では自己の存在は大きく輝いているのかもしれません。
 鰹なる料理は意識と無意識からなる主観の世界において自己を大いなる存在へと導くと同時に、現実世界においては小さな概念の存在へと導くのです。これが人に孤独感を憶えさせるのだと思います。小さな概念となった人は不規則で乱雑な動きをします。そしてそれは社会を混乱の渦へと陥らせるのです。



④、周囲の存在の認識


 では次に、鰹なるものを取り込んだ時に感じる、他者や周囲の物事に対する認識について見ていきます。
 自己の存在の認識のところで述べましたが、鰹なる料理の感覚を取り込んでいくと、主観の世界で自己の存在感が高まります。そうなると、周囲の人や物事は相対的に小さく感じられてきます。それは鰹なる料理を想像した時でも、目の前にした時でも、食べた後でも、その程度は異なってもベクトルは同じです。そのベクトルの先にある結果の良し悪しはその人の理性次第です。
 
 一般的な人は食事にかけられる予算は決まっているものです。例えば、予算的に昼ご飯は五〇〇円で済ませなければならない時に、近所に開店したばかりのおしゃれなパスタ屋さんが期間限定で料理を割り引いていたとします。行きたいけれども、五〇〇円では食べられません。始めは習慣によって理性が強く働いていますから諦めの心境になります。しかし、仲の良い同僚に強く誘われると、明日以降の予算を減らすことで対処しようかと思案した挙句、一緒に行くことにしました。

 料理が出てくるのを待っている時、予算に対する意識は薄らぎ始めています。食べている時にはもう明日以降のことは意識に上らないかもしれません。料理は美味しくて大満足でした。

 ふと窓の外を見ると、本来そこで済ませる予定だったチェーン店の定食屋さんに行列ができています。人はそれを見て、美味しいパスタが食べられた自分をどことなく強く大きな存在として感じるでしょうし、その光景をどこか遠くに、他人事のように感じることもあるでしょう。

 理性の高い人であれば、今日と日常を区別して、これを力に変えて明日以降の仕事に生かせるかもしれません。しかしそうでない状態の人もいます。

 チェーン店の食事とパスタ屋の食事にある差異を主観の中で優劣に置き換える人です。そういった状態にある人は定食屋さんに並んでいる人を見て、なんだか哀れな気分にさえなるかもしれません。心の内で次にこの店に来た時は違う料理も食べてみたいと消費欲を喚起させられているかもしれません。その時の心境は昼食前とは明らかに変わっています。しかし、昼食代に費やせる予算が変わらない限り、明日以降は自分もその行列に並んでいることはほぼ確定しているのです。その未来は未来であったとしてもほぼ確定した、今までと変わらない日常なのです。変わったものは主観の世界の中で繰り広げられる物語と自意識だけなのです。


⑤、道具として使う

このように見ていくと、鰹なる料理は主観の世界で自分と他者の存在感に動きを付け、自分をより活発により外向的にさせると言えるのではないかと思います。
 鰹節の香りについて使った言葉をまとめると以下のようになり、それらは対極的な動きをしていることが分かります。

  1. 充足感と飢餓感

  2. 覚醒と眠気

  3. 清々しさと疲労感

  4. 力強さと純粋で無垢

  5. うま味と酸味

  6. 空間的には狭く深く、時間的にはゆっくりと動き余韻は長いと空間的に広く浅く、時間的には早く感じ後味にキレ

 鰹節に含まれる味覚や嗅覚を刺激する物質を感知する機能を全ての人が一様に備えているわけではありません。そこには差異があります。ですので、理解できない人も或いは私が気付いていないことを知っている人もおられることと思います。しかし、いずれにしても人の体性機能が捉えた感覚は主観ではなく客観性を伴った事実であると考えられます。そして同時にある程度の社会性を伴った事実でもあると考えています。

 不幸にも私が熱いものを冷たいと感じたり、いくら食べても満腹感が得られないなど、一般的ではない感覚を得る体であるならば、上記の事実に社会性を伴っているとは言えないかもしれません。しかし私は幸運にも飲食業界において25年に亘り仕事して来られました。これは私の味覚や嗅覚が25年に亘り社会にある程度認められてきたことに他なりません。このことから私の体は一般的な機能を持った体であると言えると思うのです。

 鰹なるもの、鰹なる料理の持つ特徴を、私たちは社会の中で道具として使うことができます。しかし先述したように、その特徴を社会的な側面から効果的に利用するには理性が必要になります。そういう意味では私は内向的で息詰まりを憶える人には是非、積極的に口にして欲しいと思っています。

 次回の記事では、日本料理の出汁を取る際に主に使われる鰹と昆布の、昆布について見ていきたいと思います。日本料理の根幹とも言われる出汁に何故、昆布が使われているのか?何故、美味しいと感じるのか?これを見ていきながら、この昆布、或いは昆布なるものこそが人に理性的な感覚を与えてくれるものであることを知って頂ければと思っております。


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