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PCすら持っていないのに⑤

ここでは、PCすら持っていない、料理人の私が何故、Webデザイン、プログラミングを学ぶ事になったのかを①から書いた結果、
私の経歴、自己紹介になり、自身の記憶の振り返りを含めて書かせて頂いております。
なので、プログラミングやWebデザインとはまったく違う文章となっております。

修行についていけず

2009年4月上京した私は、高級イタリアンでの修行を洗い場からスタートし徐々にステップアップし
やっと料理をさせて貰えるようになったにも関わらず、

お客様に料理を出すという、責任とプレッシャーに負けて挫折、

三年という短い期間で修行を断念

自分の店を持つという夢は日に日に
遠退いていってしまっていました。



地方との収入格差

修行、責任、プレッシャーから逃げ出してしまった私は、次の仕事を探す際に、
目先の欲にかられ、生活をもっと豊かにしたいと考えてしまいました。

地方での収入、東京での収入、同じ仕事をしていても差がある事を意識しだしたのが、この時期でした。

求人紙を開くと、同じ飲食の仕事でも収入や待遇に差がある事に気づいた私は、そこだけにとらわれ仕事を探してしまっていました。

変化

友人の紹介でスペインバルでの調理のアルバイトを始めた私は、
修行していた時の名残で、バイトにも関わらず、朝早く出勤して一番に準備をするようになっていました。
早く仕事を覚えられるようにと努力しました。
メモを取り、レシピを覚え、帰ってノートにまとめる。

その結果、すぐに仕事を覚える事ができ、色々任せてもらえるようになりました。

収入も倍近くなり、嬉しかった事を今でもよく覚えています。

順調に進む毎日が楽しく、料理も色々できるようになり、このまま毎日を上手く過ごせ
ればと感じていました。

突然の電話

バイトを始めて3ヶ月目、
仕事もうまくいき、収入も安定、貯金も貯まってきていました。

そんな中、田舎の母親からの突然の電話で
祖母が倒れ危篤の状態になり、同時期に父親が職場での作業中に事故にあい、入院した為
帰郷して欲しいと言われたのです。

その当時、妹は高校生、母親はパートで働いてはいたものの、その状況では働きにも行けず困っているとの事でした。


私は高校を卒業してから一人で暮らす、祖母の家で四年間、一緒に生活をしていた事もあり、おばあちゃん子だったので、すぐに帰らないと行けないと感じ
すぐにバイト先の店長、料理長、紹介してくれた友人に状況を話し、

一時、地元に帰る事になりました。

地元での生活

地元に帰った私は、祖母のいる病院と父親のいる病院へのお見舞をする日々の中、貯金が減っていくのが気にかかり、働かずお見舞だけの生活を続けるわけにはいけないと感じ、病院の近くでバイトをする事に決めました。

カフェでの調理のバイトをする事になった私は、

自分の経験に自身を持っていました。
挫折して辞めたイタリアンレストラン、
東京のスペインバルでのバイトで、
私は料理ができるようになったと勘違いしていました。
上京して働いたイタリアンの店を中途半端で逃げ出した事を忘れ、
バイトで短期間で色々仕事を任せてもらった経験が、
地方のカフェだったら大丈夫だと油断をしていたのです。
甘い考えでした。
勘違いをしていました。

料理をする人、サービスをする人は皆
お客様や、そこで働く人たちに
喜んで貰う事、楽しんで貰う事が嬉しいと思って仕事をしている人が大半かと思います。

その根底はどこで働いていても一緒だという事に
そのカフェで気づかされました。


同年齢の料理長

同じ年齢の料理長に店の料理を教えて貰う事に、
私はプライドを隠す事ができなかったのです、
中途半端で辞めてしまったのに、、、

ただ負けたくないという思いもあり、なんとか仕事を覚えようと必死でした。

始めは同じ年齢という事で、料理長をライバル視してしまっていましたが、
一緒に働いていくにつれ、料理への思い、スタッフへの思いが伝わり、
同じ年齢なのに、オーナーからの信頼を得てお店を任され、責任とプレッシャーを抱えながらも、スタッフを引っ張っていける、凄い人だなと次第に尊敬するようになりました。

お見舞

そこでのバイトもうまくいくようになり、私はバイトとお見舞の両立をし、なんとか生活していました。

父親は怪我を完治し、職場復帰した頃には、バイトの時間を増やし収入も上がっていきましたが、

祖母の病状は、悪化していました。
お見舞にいく日々のなか、祖母の私の記憶は日に日に薄れていきました。

調子の良い日もあれば、悪い日もあり、良い日には、私の名前を覚えてくれていて、院内を一緒に散歩したりもできましたが、悪い日は、私の事も覚えておらず、目を閉じたまま、話す事も少なかったです。

最後の日

今でも、はっきり覚えている、

もう私を見ても誰かすら分からなくなっていた祖母が、
私の手を握り、名前をはっきり呼んでくれたのです。
久しぶりに私の名前を呼んで貰えた事が嬉しくてその事を私は両親に伝えました。

その翌日に祖母は亡くなりました。
92歳でした。

祖母との思い出

私は、おばあちゃん子で、家も近くにあってよく遊びに行っていました。

祖母の家には、オロナミンCとヤクルトが常備されていて、よく遊んだ帰りによって、祖母と話しをしていました。

祖母は、海が好きで、よく潮干狩りに行って魚や貝等を捕ってきて料理をしてくれました。
畑も自分で耕し、ほとんど自給自足で生活していました。

いつも優しいオバーが大好きで、

大学生の時は、一緒に住ませてもらい、たまに叱られる事もありましたが、

一緒に海に行ったり、買い物に行ったりしたことはいい思い出です。

まだまだ、祖母との思い出は色々ありますが、
この辺にしておきます。

また上京

祖母が亡くなって半年後、
まだ自分の店を出すという夢を諦めきれず
また上京する事を決め、
東京での仕事を探し始めましたが、また同じ過ちをしてしまうのです、


長くなりそうなのでこの辺で終わります。また次回、続きを書きたいと思います。



私自身の思い出話しで、役に立つ情報ではありませんが、
同じような経験をされた方や
共感して下さる方がいてくれましたら嬉しいです。

ここまで読んで頂きありがとうございます。

note初心者の私の文章ですが、
引き続き、暖かい目で続きを読んで頂けると嬉しく思います。
まだPCすら持っておらず、勉強中の身ですが、まず始める事、そして続ける事を意識してこれからも学んでいきたいと思います。

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