PCすら持っていないのに(続)②好きから始めた仕事なのに
前回の投稿の続きです。
ここでは、PCすら持っていない、料理人の私が何故、Webデザイン、プログラミングを学ぶ事になったのかを①から書いた結果、
私の経歴、自己紹介になり、自身の記憶の振り返りを含めて書かせて頂いております。
なので、プログラミングやWebデザインとはまったく違う文章となっております。
バーテンダー
人間関係に疲れ、それでも飲食の仕事を続けてこれた理由。
15年前、大学卒業し、在学中にしていたホテルのバーでのアルバイトをきっかけに、
自分の店を出したいと思い、大学での勉強には集中できず、
必死にカクテルやウィスキー、バーの知識を覚えようと勉強していました。
同じ年齢の社員もいて、そこから刺激を受け毎日が楽しかった事を覚えています。
今でも、あの頃に戻りたいと思う程、今までの人生の中で一番充実していました。
愚か者
ただその時は自立しておらず、
バイトで稼いだお金は、すべて、自分の趣味や酒に消えていました。
正直に話すと恥ずかしいのですが、
大学の学費、生活費、その他諸々を、実家の親、祖母から頂いていました。
その頃の自分は、とても自由で、自分勝手で、色々な人に迷惑もかけていました。
真剣に考える思考能力の欠場
自分が楽しければよかったのです。
将来の事を真剣に考えきれなかったというのが事実で、
自分の店を出したいという漠然とした思いはあるものの、将来設計というものは正直なかったです。
就職氷河期
大学の周りの親友たちは、
就職活動を真剣にやっていました、
就職氷河期という時代の中、
皆必死でした、私は反対に真面目に就活もせず、
自分の店を出したいという漠然とした思いで、海外留学をしょうと決めていました。
知能指数ZERO
海外留学を真剣に考始めて、
やっと自分にはそれを可能にする、
貯金がない事に気づきます。
(かなりヤバイ思考力ですよね、笑)
ただ、海外留学については、親に頼らず自分でなんとかしょうと考えました。(当たり前ですよね( T∀T))
そこに気づいたのが、かなり遅く、周りも就職が決まり、とり残された状態!!ヽ(゚д゚ヽ)(ノ゚д゚)ノ!!
夢半ば
就職を諦め派遣の仕事で名古屋に行き、
短期間で留学資金を貯める事を考えました。
自動車工場での仕事でした。
寮生活
3交代の週単位で、朝番、昼番、夜番で働き単身寮での生活でした。
寮は単身寮という案内だったのですが、
玄関が一つで二人部屋をふすま1枚で仕切っただけの部屋でキッチン、トイレは共同で利用し、風呂は大浴場でという感じでした。
(今は、もっとちゃんとしてるかと思います。15、6年前の話しなので、、笑)
食事は寮に食堂があり、そこで、食べるか自炊するという感じでした。
元料理人の師匠元
私が恵まれていたのは、
ふすま1枚で隔てられた寮の住人が、
3才年上の大阪の方で、その方が元々料理人だったという事です。
自炊生活
上京したてで今まで自炊をした事のない私に、米のとぎかた等をいちから色々教しえてくれました。さらに共同で食費を出しあい、弁当まで作ってもらったりして、生活ができた事はかなり恵まれていたと思います。
休みの日には、その方の車で、大阪までドライブしたり、愛知県を観光したり、
車中では社会人としてのモラルの話しを教えてくれたりもしました。
色々勉強になりました。
充実した休日を過ごす事ができました。
その方とは同じ班で仕事をする事はなかったので、お互いに情報交換をする事もありました。
班によっては社員や同僚があまりよくなかったりあるようでしたが、
私はそこも恵まれていました。
同じ班の社員さんからは、
若かった事もあり、色々面倒見てもらえ、
休みの日には、サーフィンやスノボなど連れて行ってもらったり、充実していました。
充実した環境で、留学資金も貯まったのですが、
留学して何を学ぶのかを考えた結果、
留学ではなく、寮生活での自炊が楽しくなり、料理人になろうと決意しました。
そのまま、就職先を探せばよかったのですが、勇気がなく、留学資金をそのまま、調理師学校の資金に使いました。
就職業訓練校の試験を受けたのですが、落ちてしまい。
充実した日々
結局有料の専門学校に行く事になり、学校に行きながら、居酒屋でバイトをし、料理を勉強しました。
自分のやりたい事、
好きな事を学び、
それを仕事にするという、希望と充実に満ちた毎日でした。
居酒屋の料理の仕事も、色々吸収して、できる仕事が増えていく事に喜びを感じていたのを今でも覚えています。
夢と希望
学校を卒業し、そのまま、その居酒屋に就職をするという道もありましたが、
高い学費を払って学校に行ったからには、一度一流の元で仕事をしたいと思い、
沖縄から
東京の高級イタリアンレストランへ面接をしにいきました。
面接は、オーナーシェフにしてもらえました。
その頃テレビや雑誌などによく出演していた方だったので、とても緊張したのを覚えています。
面接でのやりとりでシェフは私が沖縄からカバンひとつで出てきた事を気にいってくれて、あっさり就職する事ができました。
厳しい現実
私は修行だと思い上京し都会での仕事に胸を膨らませていました。
とても厳しい世界だという事も覚悟していましたし、なにがあっても負けない気持ちでしたがその頃の私は田舎者の世間知らずだったのです。
ここまで読んで頂きありがとうございます。長くなりました。
料理人として東京で働き始めるまでの、お話しを書かせて頂きました。
また、続きは、次回書かせて頂きます。
note初心者の私の文章ですが、
引き続き、暖かい目で続きを読んで頂けると嬉しく思います。
まだPCすら持っておらず、勉強中の身ですが、まず始める事、そして続ける事を意識してこれからも学んでいきたいと思います。
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