愛される、についての雑感

最近わかってきたことがあって、世の中には、「好きであるなら、時間、視線、意識、関心、労力、お金、気持ちなど、持てるすべてを相手に捧げるべきであって、それらを自分に優先的に向けさせることがすなわち自分を愛してもらうことだ」と考える人たちがいる。

そして、それがエスカレートして、人がその人ではないなにかに興味を持っていることに気づいたとき、なぜこっちを向かないのか、こっちを見ろ、と、強烈に相手に詰め寄ってしまう。他人が思うように動かないことに苛立って、どんどん行動が過激になってしまうのは、その思考回路では、他人が自分を優先しないことは、イコール自分が愛されていないことになってしまうからだ。それがこわいのだろうと思う。

私は結構これに迷惑した過去がある。愛されていない不安から来るものだとしても、その人から最終的に向けられることばは刃であり毒だ。うざいなとかげんなりするな、くらいで済めばいいが、蓄積すれば疲弊する。こちらの気持ちもうまく隠さないと相手に伝わってしまって、ますますその人は愛されていない不安ループに陥って、状況は酷いことになる。
ただただ疲れるだけなので、あなたが愛されてないことなんてないですよ、という、その時点ではほとんど思ってもいないようなことをうまいこと表現して信じさせないといけない。あぁ人間関係ってなんて面倒なんだろうと思うのはこのようなときだ。

「愛される」の定義が違う人たちなんだな、と、今は俯瞰して処理もできるようになったけれど、こちらに余裕がなければ疲れるだけであるし、自分ばかり気を遣うのもそのうち馬鹿らしくなってくる。

「愛される」の定義と言ったけれども、今私が思う人を愛することというのは、「それぞれが独立した意思を持つ別個体であることを認識し、その意思が発するものを軽んじないこと」なので、愛されることというのは、ちゃんと話を聞いてもらえることであったり、一方的に断罪されないことであったり、大事にしているなにかを否定されないことであったりする。そうすると、冒頭の考え方とはどうしても相容れない。

愛されたい気持ち、愛されていない不安は、誰しもが持っているものだと思うけれど、じゃあ何が愛されることなのか、となるとたぶん人によって違う。違うのに同じく通じると錯覚するから、人間関係はますますややこしいことになるんだな、と思う。

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