きれいなもの

先日、たまたま津軽のこぎん刺しの体験・販売イベントの前を通りかかり、ひどく惹かれるものがあったのだが、時間がなくて手に取れなかった。
それからこぎん刺しの解説のパンフレットをみる機会があり、その後流れて柳宗悦の文を読むに至った。

いずれも、まだ本物を見てもいないのに泣きそうになった。
以来ずっと私のこころをざわつかせてやまない。

地の身頃いちめんにびっしりと、稲田の雪のような、一目一目。
いつか実物を手にとって見たい。
きっとどうしようもなく泣くと思う。


なにがそんなに泣かせるのかといえば、色のうつくしさや幾何学の紋の妙もあるが、一番は、刺繍であることだ。
刺繍は、途方もない、手仕事の結晶。
そこに縫われているのは、糸だけでなく、集中力と、時間と、ぬくもりと、情だ。

黙々と、縫う。
20年以上前に亡くなった父方の祖母は田舎の働き者のばあさまで、和裁をやる人だった。
ぼんやりとイメージが重なる。
冬に、黙々と、縫う。一針、一針。
途方もない、思いの重なり。
だからかな。どんな刺繍も、うつくしいと思う。

いつかも、こんな震えるような感情を覚えたなと思って、しばらく感傷的な気持ちの海に浸りながら、ぼんやりと考えていた。

そうだ、訳本だ。

訳本というのは、平然と図書館や本屋にあるが、じつはものすごい研究成果だ。
人の知を公の知にして遺す最たるもの。時を越え海を越え、種をばら撒く。
新物質の発見や偉大なる発明に負けず劣らず、高度で、難しく、すごいことだと思う。
一文字一文字、紙の上の文字の連なりと格闘し、少しずつ、少しずつ、翻訳をもとの文の上に施し刺していく。
そうして、ことばも時代もまったく異なる、しかしともに同じ人である誰かの思想を、こころを、もう一度今ここにあらわし直す。
その果てしなさは、刺繍の一針一針と、同じだ。

あれの全訳ってまじか、みたいな衝撃と、これが全部手刺繍ってまじか、みたいな衝撃は、とても良く似ている気がする。しばらく、ぼうぜんとする。

あいにく刺繍は手元にないのだが、詩集の訳本は手元にあるから、今日はそれをずっと眺めていたいと思う。

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