謝礼の値付け

考えたって仕方がないことなのだが、謝金の精算というのはいつもなんだかなという気分になる。

大学では(だいたいどこもそうだと思うが)講師謝金の単価表というのがある。
どういう人にゲストで講義・講演を頼んだら時間単価(上限)いくら、という基準の表だ。
これは相手方の職業・職位に応じて区分けが決まる(※勤め先の大学では、の話)。
話の中身や、要求することの難易度によるのじゃない。お礼とは所属と肩書で決まるのだ。
これがいつも気にくわない。

基準がなければ、どんどん金額がつり上がっていったり、その金額が適正なのかが第三者に判断がつきにくかったり、不正が出てきたり、単価になやんだり、人によってぶれたり、という状況になるだろうから、そういう基準があることの利点は理解しているつもりだ。
しかし、こうもあからさまに人は人の肩書でもって人の扱いに差をつけるのか、という点に、毎度毎度なんだかなと思ってしまう。

たとえば、どんなに貴重な講話だったとしても、その話者が個人の農家のおばあちゃんであれば、官庁の若い係長や大学の助教へ払う謝金単価より低くなる(公務員の場合ほとんど謝金を受け取らないがそれは置いておき)。まぁ絶対に高くできないわけではないが、単価表の適用を外れる場合は、経験や他の事例の資料など、かなりの説明を要する(ランクを上げて支出することも同じ)。そこまで処理に手間をかけないために存在するのが単価表であって、そういう個別対応をやっていると単価表があることの意味をなさなくなる。なので通常は結局単価表に従って粛々と安い謝金を支払うことになる。
大学の先生・公官庁・大企業の役職者以外、小規模、自営業、所属なし、役なし、というのは、得てして低い基準になりがちだ。個人的にはもともと単価安いのだしそんなに差をつけるほどかなって思うのだけど。

まぁでもこれを覆すような理由も機運もない。個人的に気にくわないというだけでは変えられない。法律や、国の基準、地方自治体の基準、そういうのが変わらない限り変える理由はないことにされるし、過去に定められたものというのはそれだけで重く動かない。民法にだって100年かかっても変わらないなんだかなっていう規定があるのだ、一度決まったものというのは簡単には変わらない。

正直、業として講演をやっている相手でなければ、報酬じゃなくて「お礼」なんだから、極論、上限一律にしてもいいんじゃないかとすら思うが、どうなんだろうか。
そもそも「適正な謝礼」ってなんなんだ。そしてこの単価表は果たして「適正」なのか。

とかなんとか、またこういうことに気を取られて仕事が捗らない。
こういうのにいちいち引っかかっているから能率悪くてだめなんだ、それはお前の考えることではないし、そんなの考えている暇があるならさっさと仕事しろ、という叱責が聞こえてきそうだ。自分でもそう思う。いいから仕事しようってそう思う。

でもひっかかってしまうのはどうしようもない。
ため息つきつき、なんだかなと思いながら支払伝票を回すしかない。

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