大人になること

子どものころ、私にとって世界は、興味がある(=すごく好き)と、興味がない(=どうでもいい)の二種類しかなかった。

興味があるものについてはのめりこんでもうそれ以外の選択肢なんてありえない、となるが、興味がないものや自分の満足を越えた部分には、ものすごく適当でいい加減になり、手抜きもひどかった。嫌いという感情はほとんど持たず、何かを選ぶときは大概絶対の一択かなんでもいいかのどちらかで、たとえば何かの希望を第三希望まで書くとしたら、第一希望を三回書くか、白紙かのどちらか、というようなわりかし極端な子どもだった。(これは今もそんなに変わっていない気はする)

私が何かを「これしかない」と思って選んだ経験の中で、記憶に残っている一番古い出来事は、傘を選んだこと。

あれは小学校に上がるころだったかと思う。
傘を買おう、と母に連れられて、ある日商店街の傘屋さんに行った。
傘屋さんは、元々お祭り用の提灯や行灯、団扇などを専門で作っているところで、一緒に傘も売っていて、壊れた傘の修理などもやっている専門店だった。
天井には傘がいくつも開いて展示してあって、とてもカラフルでわくわくする空間。何の用がなくても、遊びに来たくなるようなお店だった。

その場でいろいろ開いてみて、ピンときた傘は、ギンガムチェックの青い傘。8つある三角形の布地の一枚だけ無地の青になっていたのがおしゃれで、お気に入りのポイントだった。絶対これがいい、私が持つ傘はこれ以外にない、と思った。
傘屋さんが、プラスチックの持ち手のところに名前を彫って、チョークのようなもので色を入れてくれた。
一瞬で正真正銘の私だけの傘になった。魔法みたいだった。

小学校に上がって、その傘を持ち歩けるのがうれしくて仕方がなく、雨の日や雨上がりの帰り道はいつもルンルン傘を振り回していた。
と同時に、もしいまこの傘をなくしたり、意地悪されて傘の骨を折られたり汚されたり隠されたりしたら、絶対絶対泣く、という確信を持っていて、そんな最悪のシーンをふと想像しては一人かなしみに浸っていた。
喪失をイメージしてかなしみを確かめること。それは心配や不安の類ではなく、それが私の興味と愛の確かめ方であり、存在証明だった。なくなったらかなしい、と強く思えることは、それだけ、それが好きだということだった。

幸いにも当時その傘を壊されたり失ったりすることはなかったのだが、いまそれだけの思い入れを持てるものがあるだろうか、と、あたりを見回して思う。
これが失われたら絶対泣く、と思えるほどの「好き」。

いろんなものに、興味も思い入れもなくなってきて、何でも諦めがつくようになってしまった。失うことをかなしむ前に、そうなっても仕方がないと、簡単に受け入れてしまえる。

大人になるって、なんだかさびしい。
なんの変哲もないビニール傘をさして、思う。

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