抜け殻遊び

昨日は散歩中に蝉の抜け殻を見つけて、小一時間眺めて過ごした。
昔から蝉の抜け殻が好きだ。

生きた昆虫は、眺めているのは好きだが、少しこわい。生きていることが、こわい。
触れるのは平気なのだが、持っているのがこわい。動くものであることがこわい。飛んだり跳ねたりもがいたり、とにかく意思がある。掴んでいる間にじわじわと恐ろしくなってきて、手放してしまう。
標本も結構こわい。かつて動いていたものであることがこわい。整然とピン留めされているところになんとなく不安を覚え、こころから安心して眺めることができない。

その点、蝉の抜け殻は、とても安心できる。
動かない。そこには何もない。何もないからこそ、集中して存分にいつまでも観察できる。

ぱっくりときれいに裂けた割れ目、
羽化の支えの白い紐。
透き通るレンズ、
顔の細かなうぶ毛、
ちいさく縮こまった翅、
ふんわり柔らかい感じのする腹、
鍬のような手、
ピンみたいな細いストロー、
ひっかかりのある細い細い脚。

外から眺めても、割れ目から内側を眺めても、不思議な気分になる。よくつかえず欠落せずきれいに抜け出せるものだなといつも思う。そしてその殻がよく形を保っているものだなと。
触角まですべてが完璧な形で残っている抜け殻を見つけると、どきどきして、嬉しくなる。
(そんな私がナウシカで一番好きなシーンは、王蟲の抜け殻を見つけてレンズをくり抜くところだったりする)

小さい頃、夏休みといえば、トンボだのクワガタだのバッタだの生きた昆虫集めをする友達をよそに、蝉の抜け殻ばかりを集めていた。
そっと、壊れないように草や木から取り外して、欠けたり潰れたりしてしまわないように丁重に持ち帰り、空き箱にティッシュを敷いて、しまっておく。あとで取り出してはゆっくり眺める。
それはとてもとても楽しい時間だった。

今も抜け殻が好きな気持ちは同じなのだが、見つけてもその場で観察するだけで持ち帰らなくなった。
大人になったものだ。抜け殻は「捨て時に困る」ということが分かるようになったのだ。

生きたものであれば、死んだら片付ける、と終わりを決めることができるが、抜け殻は生きていないので死なない、終わりがない。終わりがないものに終わりを定めるのは、けっこう難しい。貝殻なんかも、そうだろう。心躍らせて持ち帰っても、思い入れがあるからこそ終わりを決めることができない。気持ちが離れて忘れた頃に、思い入れのない誰かがこっそり捨てる以外、片付ける方法はない。(ああだから親は夏が終わると私の抜け殻コレクションを捨ててたんだな、と、今なら理由がわかる)

うまく終わりを定められないことに気づいてしまったので、今はもう、完璧な抜け殻を見つけても、拾わない。その場でじっと眺めて、手にとってしばらく観察して、素晴らしいなと感嘆し、一回くらいはTシャツにひっつかせて遊ぶが、最後にはもとの場所に戻す。虫たちの世界に返す。
それが最も正しい嗜み方なんだろうと、思う。

そんなわけで昨日は散歩しながらそのようにして遊んで一日が過ぎた。
昔から一人遊びは大の得意なのだった。

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