詩を書く人へのラブレター

私は詩そのものも好きだが、詩を書く人も好きだ。
(※ここでの詩には、古今東西の各種詩歌、詩的表現やほんとうを含んだ文章を含めます)

詩を書く人は、他人への諦めに染まりきった私に、もっともきれいなものをくれる。

詩を書く人の何が好きかというと、詩を書く人は、どうやったら「これ」を正確にあらわせるのか、どうやったら「これ」を写せるのか、どうやったら「これ」を言語世界に翻訳できるのか、そういうことにいつも全力投球なものだから、そこがたまらなく好き。
自分もそうありたいと思っている。

「これ」というのはいろいろだし、あらわし方もいろいろ。
神の創造したうつくしいものかもしれないし、世界の真理かもしれない。
人を好きな気持ちかもしれないし、この世への絶望やかなしみかもしれない。
詩の奥には、とにかく「なにか」があって、詩人はそれをどうにかしてあらわそうとしている。
あらわし方は、歌や叫びかもしれないし、短歌・俳句かもしれないし、自由詩かもしれないし、真剣な文章かもしれない。ふと思ったけれど数式もそうだな。
まぁどれであってもひとしくいとしいのだというのをここでは言いたい。


詩を読まない、書かない人は、詩のことを、読んでも意味がさっぱり分からないとか、気恥ずかしいとか、かっこつけちゃって、みたいに思っているかもしれないんだけど、命を削る思いが入った真剣勝負の一筆や、そういうことだったのかと一瞬で世界と自身を悟るような胸を貫くことばに、まだ出会っていないだけであるような気がする。
(※ちなみに、かっこつけとは対極にあるのが詩だから、そこは触れまわりたいと思う。かっこつけて書いているものがあるとしたら、いかに詩の形をまとっていようと、私はそれを詩とは思わない。かっこつけてしまう気持ちを書いているとしたら、それは詩だと思う。)

出会ってしまったら「わかる」のだ。わかってしまうときには、それが何のどんな感覚なのか、いともたやすく通じてしまう。だれかはだれかと似たような経験や「なにか」を持っているから。繋がってしまう。

詩とはそういうもの。そういうものだ。

そういう、奥の奥の深いところで繋がれるかもしれないことって、人とは分かり合えないと絶望してしまいがちな中にあって、ほんとうに奇跡的なひとすじのひかりであると思う。

そういう、繋がれるひかりを、全身全霊をかけて削りだしているのが、ほんとうの詩を書く人。
一生懸命、「なにか」を、この世に表現しようとする。写生しようとする。翻訳しようとする。木や石のなかから取り出そうとする。

そのひたむきさ、一生懸命さ、真摯さが、私はうつくしいと思うし、とても愛おしい。大好き。


それで何が言いたいかというと、だから今日も読みます、ということです。

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