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土地と場所〈風景写実試論〉

 小説を書くと云う事について、何時か何か述べられればと考えていましたが、私はどうも人に教える類の文面が苦手な様です。其処には、或る程度の学び手にとっての切り捨て、が求められ、物事に手順を与える事であるからかも知れません。その様な私にも語れる事はなんだろうか?と悩んでおりました。今回は風景描写とそれに付いて述べられる事を語りたいと存じます。

 今回試運転として目次を導入致しました。これは公開しないと、成果が見られないものなので、ご不便があったらご容赦下さいませ。


1風景描写とは?

 マルセル・プルーストは作中で土地に付いて長い文章を書いています。物語が長いのでありますから、それは土地も広大なのだろう、と想像されるかも知れません。ですが、所謂、広さと云うものとは駆け離れていると存じます。それは細かく、人と関係していて、見る人によって異なるモノで、逆説的に、認識を超えた場所と云うものがない事を示し、同時に、場所を描く事で其処に多くの認識がある事を示しているのです。〈過去と今この瞬間の未区分な状態、流れです〉小説を書こうとしている方にいきなり、プルーストの名を持ち出すのは酷な話であります。恐らく、大抵の人間はそれに挫折を感じるからです。小説を書こうとする時、もっと楽しんで書いて欲しい、と思うのですが、楽しく書いたものが何か物足りない、と感じたらそれはとても残念な事でありましょう。
 これを書くに辺り、書き手として〈風景描写が苦手〉と云う方も前提に含まれています。風景描写、写実、と云うものは、私達の無意識とその構造と関係性が強く、それに付いてドゥルーズは〈シュミラークルと地図〉と云う視点から述べています。グーグルが見せてくれる包括的な地図と私達が認識する実際に歩いた地図は違い、私達〈小説に於ける作者〉は後者に属するのです。ドゥルーズはプルースト研究もしていたので、此処で上手く結びつきました。彼は厄介なので此処で退散して頂きましょう。カントはモノそれ自体、と述べています。私達とって風景は表象であります。それを如何に書くのか、小説に足すのか、必要十分条件とは?〈カントにも退散して頂きましょう〉

 風景をただ描く、と云う事が西洋においては哲学から湧き出た手法であるのに対して、私達はそれを外来的に輸入して知らず知っらずに活用しているのです。勿論、使えている筈なので可能ではありますが土台から組み上げている方々とはちょっと異なります。
 風景描写が苦手と云う方が多いとされる、或いは、多く聞くとしたらそれは当然であります。風景を認識し、認識の地図に書き足す、と云う書く前の段階が無意識下の複雑な作業で、それを読者にバレない様に、読者の脳裏に擦り込もうと云う企みなのですから、簡単である筈がないのです。
 そして、これは詩の技術の一つと云う事になります。詩と土地と云うのは深い関わりがあり、この様な企みを延々とやってきた分野です。

2書き方と多種多様な背景

 小説を書く人は〈その風景〉を如何にして描きたいのでしょう?まず、私達は活字を持って挑む訳ですから、認識を超える事は出来ません。〈超越論を持ち出すのはもっと後の話であります〉此処は、初歩。初めて小説を書き、これから小説を楽しむ人の一歩目であります。最初に場面を書くか、人物の独白で入るか、風景描写を書くか、悩ましい所です。
 あなたの人物は明瞭にあり、明瞭に何かを為そうとしている、呆然としているなら、それは明瞭に呆然としている、だが、風景は呆然としていない。風景を描く時、風景は何人称で語り、誰に向かって語るのでしょうか?作者から読者?でしょうか?主人公から恋人へ、でしょうか?過去から未来、未来から過去へ?此処で重要なのは、風景と云う大きな問題が中々話題に上がらない問題を有している事を、明瞭な認識上で語れない、と云う点であります。

 例えば漫画であれば、緻密な背景や黒塗りの背景、射線の背景と書き分ける事が出来ますが、文面はシングルタスクです。一つの楽器しか唄えない楽譜です。活字はその様な単一の声でなければなりません。つまり、背景と人物を同時に、ハーモニーとして描く事は可能であっても難しい事、と云う事です。

 読者としての私達は自明な事象としての風景を思い浮かべますが〈それが優れていて読みやすい本であれば〉、作者はそうではないと云う事です。
 基本、書くのは、作者から読者へ、と云う流れでありますが、作者自身がその場所に居ない場合があります。幻想的な場面、夢、架空の場所などはそれです。では、如何なる視点で誰へ向かい書けば良いのでしょう?〈自分で自分に説明しますか?〉つまり、それが風景と説明の区分になります。〈自分で歩いた地図〉を書くのであります。次に、それを誰かに伝える方向性を与えます。
 自分にだけ分かる地図でも無論構わないでしょうが、ですが、それは他人に伝わらないと云う点で言語的な明瞭さに欠けるもので、ある種の詩である事を自覚して頂きたのです。

 その様な場合、まず、自分で書くスケッチをかき集めますが、厄介な事に、この手順は不可逆的であります。後で、自分で自由に並べ替えるのが大変に難しいのです。

 私達は、大した企みをしている訳ではありません。自粛期間に手軽に短編小説を書くknow-howの小さな一項目〈風景〉に付いて考えているのです。〈多くの方が哲学的な認識の問いを問いたい訳ではないのを充分に理解しています〉これによって満たされる文字数は一行ないものかも知れません。一段落に及ぶかも知れません。ですが、実際に登場する場所は描かれる以上に多くの情報を含んでしまっています。

3風景は捨て去られるもの

 捨象と云う用語があるのですが、文字通り、風景とは捨象〈事象を捨てる事〉されやすものであります。
 コロンビアの小説家は、まず、日本人に伝わる様に描かないでしょう。万人に伝わるものを、とは思っているかも知れませんが遠い人はまず省かれます。明治時代の小説家が百年後の人々を想定して描く事もないでしょう。まずは、今、伝わる事が重要であります。遠い人にも伝わる事とは何か?推測出来る事、調べればわかる事、そして詩性であります。やはり、文章の詩と云うのは重要です。エモーショナルな事を伝える詩ではありません、エモーショナルな語り方です。
 無論、此処では、難しい小説の一コマを例に上げたりしません。本当はチャチャっと終わらせて結びたいのです。
 大抵は、物語を描く人は人物に付いて考えたいのですから、舞台は簡略化したいのです。ですが、簡略化された舞台装置とは、実際の土地より凝っていて、システムとしては大きいものです。
 手間はかかるが丁寧に書かないと結局は、其処に注がれる人物の認識が薄れてしまいます。再三云っていますが、これは設定としての図面ではなく、表象の土地にまつわるものです。〈つまり、幻想的ですらあるのです〉
 作者、人物達、読者、を巻き込んだ大きな問いで、問い自体に本質的な価値がある、と私は述べたいのです。
 土地についてのドキュメントなり、エッセイを書こうとすれば分かりますが、旅行者とナレーターで語り方は異なります。旅行者が居なければ風景のみとナレーションになり、ナレーションがなければ土地のみになります。ですが、その土地も見る者が先見的に知っているモノ〈あの物語の舞台〉であれば認識は違うものとなるでしょう。
 よくない書き方として、書かれた風景描写が、誰によって書かれ誰に伝えられるのか明晰でないもの、と云うものがあります。よくよく読むと分かるのですが、三人称で書かれているのに作中の誰かに語りかけたり、一人称で作者に語りかけたりするものがあります。〈メタ的な境界をまたぐ書き方になります〉それは技術の一つですが、必ず的確であるとは限らません。
 スポットライト、カメラアングル、映像作品ではこれ等は恣意的なものとして考えられます。では、書く時、恣意的に書かないのでしょうか?
 プルーストの事が分からなくとも、彼が土地について長々と書かなければならなかった理由は想像出来ます。沢山の登場人物を一人の人物が認識する、それ等すべての場面に土地があり、土地は諸々の人々に認識され、個々で異なり、作用して、且つ、読者に伝わらなければならなかったからです。つまり、土地に付いての長い叙事詩が彼には必要で、同時に、それは現代の私達が出来るだけ捨象したいものでもあります。(読者としては)ですが、書くとなると、ちょっとスタンスが変わります。

 何を描くのか、と問われれば何を捨てるのかと発想出来なければなりません。主人公が些末な風景を事細かに思い出しているのであれば、それは緻密である必然性と効果があります。〈ノルウェイの森の冒頭の様に〉 

 逆に過剰な説明は、人物を忘れさせてしまいます。多くの場合、それは避けたい状況でしょう。ただ、大まかに風景描写とは人物に関わり得るものを事細かに書く事です。最大限に書き、後から省く考えであれば、最小限書く手段より書き漏らしは少ない筈です。「関係がないから省いて良い」と決め付けると自分の意識と無意識を書き漏らしてしまいます。真実は細部に宿ると云う事をお忘れなく。

4書かれてあるものを見てみよう

手始めに、私の作の一部からスケッチを持って来ましょう。

 春の雨が桜を散らす、冷たい午後、浮かれた慌ただしい一日を終えた彼女は一人青山周辺を歩いている。渋谷からの帰路、揺らす傘は透明のビニールで、片手には鞄を持ち、長い髪の毛がコートに掛かり、紺色のスカートからは白い肌が見えて、色白の顔には品の良い黒縁のメガネが在り、整った目鼻立ちに表情は見られない。彼女の視線には青山霊園が目に這入っていて、丘の上全体は桜の薄紅の屋根となって見える。やがて、陸橋を渡ると、花も枝も細かく複雑で、一様では無く、薄紅は黒々とした墓標を柔らかに抱いていた。丘に這入る前は、丘全体がピンク色の甲羅の様に見えたのであるが、其等は弾力があり、伸縮していて、白さが濃く紅が薄い吉野桜は、冷たく在り、何か抑え難い力と共に、雨の中を散っていた。

 私の作「秘する女神のコラージュ」より引用しました。これを読む時、既知の文面ではない、と云う点が都合が良いのです。まあ、この作は物語として書かれていない為、やや躊躇われますが、可也推敲された部分なので手っ取り早いです。
 此処には、一人の人物がいて、場所は春の青山霊園であります。天候は雨。主に人物を描写している様です。同時に、作者は風景に付いても語りたい様です。
 何より困難な作業として、三人称で語るとしても「時制」は、描き終えてから声に出して読んでみなければ分からない、と云う点です。現在進行形で宜しいのですが、部分的に完了しなければ、語感が悪くなるのです。それは殆ど直感的な問いで、いわゆる詩的な問いでもあります。
 当然ですが推敲の過程で多くが省かれましたが、結果として、分かりづらいシーンとなりました。〈読めば分かるのですが、これは人称についての実験的散文詩の側面があったのです〉
 当初、二章の冒頭としてこのシーンがあり、書かれていましたが、結局句読点が多様され、結びが悪く、つらつらと流れる様な文面となりました。〈二章の第二幕の様な位置づけですが、第一幕は幕外劇の様なものである為、開く幕が求めらました〉句読点は五箇所であります。多い少ないなら、少ないであろうし、私としてはかなり努めて打った心算です。読みやすいか読みにくいかで云うなら、読みにくい筈ですが、これ以上と云うものが結局思い付きませんでした。何せ二十五稿を文字通りプリントアウトして、詰めに詰めたのがこの部分でした。

 此処には、三つの視点があります、語り手〈第三者〉の視点、人物〈彼女〉の視点や認識〈三人称視点なので、飽く迄彼女が感じ得る、彼女しか感じ得ないものとしての認識〉、もう一つは彼女の中の〈他者〉です。
 これらを成立させながら時制を打つのが異常に神経を使った点だと記憶しています。今でも、これが正しいのかさっぱり分かりません。
 ですが、時制についてのヒントはあります。現在進行形として書かれたものは第三者的であり、完了しているものは人物的な描写であります。これが、正しいと云い張るつもりはありません。ただ、語る者にとってそれが完了した事か、過去か、現在進行しているのか、と云う問いが書く時点で発生している事に注視して頂きたいのです。

 簡単に風景描写があり得る例を列挙してみます。〈尚、現在と示しても、現在進行と完了は未区分〉〈過去進行と過去完了も未区分〉

 三人称小説に於いて

 語り手〈筆者〉による描写〈現在〉、語り手による描写〈過去〉〈伝聞、伝承も含む〉、語り手による描写〈未来、予想〉。登場人物による描写〈現在〉、登場人物による描写〈過去〉、登場人物による描写〈未来、予想〉

 一人称小説に於いて

 語り手〈私、僕〉による描写〈現在〉、語り手による描写〈過去〉、語り手による描写〈未来、予想〉。登場人物による描写〈伝聞、伝承〉。二人称による描写〈現在〉〈過去〉

 これ等は少なくとも明瞭に区別されなくてはなりません。


**5時制 結び

**

 日本語は、時制について脆弱な言語です。英語が時制について極めて論理的な言語であるのとは対照的です。元の日本語は時間的な問題は別の部分で補っていますが「時」と云うものは薄い様です。これは文化的問題ですが、文学的な問いとしては大きな障害であります。
 あなたが、風景を描くとしたら、最適なものを即座に描けるでしょうか?難しい?どうしてでしょうか?
 それは、時制や風景と云うものが飽く迄無意識下のシステムとして機能していたからです。これを意識的なツールとする事は、ただ認識する事とはまた別の運動、活動と云う事になります。
 風景、背景、と云う物語世界で主とならないものについて、悩んで欲しいと私は思いません。楽しいものを楽しめば宜しいのですから。ですが、「何かがおかしい」と感じた時、何のヒントもないと大変に厳しい事になります。
 これら、風景描写のシステム、機能は、余りメジャーとされていません、また個々人で異なるものです〈馬鹿なのでしょうか?文学畑の人間は馬鹿なのでしょうか?〉
 風景の認識とは、少なくとも文学史上では、哲学的命題を関わりが深く、私達はそれ等概念を転用しています。

 人物が動く事で、パントマイムの様に、演出効果としての風景を描き出せますが、文面は器用ではありません。身体的な言語ではないのです。ましてや、私達は黙読文化の元にいます。〈黙読と云うものが近代の発明であるのをお忘れなく〉

 身体的言語からの解離は、実は詩にもあり、黙読の傾倒は明らかです。如何に生き生きと、或いは坦々と、粛々と風景を描くのかと云うのはヒョイっと現れてくれる程容易くありません。

 上野から東京まで電車で移動する間にどれだけの風景があるでしょう?同時に、「上野から東京に移動した」と云うだけでは不十分である人物が、あなたの手元にあるでしょうか?

 手軽に小説を書いて頂きたいですが、その一歩として、これ等の点に注視して頂きたい。まあ、どちらにせよ、現代の日本人が現代について現代人に語る時は、捨象されるものではあるのですが、一つでも項目が変化すると、大変な労働をする羽目になります。注意して頂きたいです。
 これは、試論であり詩論であると云う点でエッセイであります。

〜〜〜

問題

1、叙事的に風景を写実する事は不可能であるのか?

2、最適化された風景とテンプレートはあり得るか?

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