見出し画像

洞察力とメタファー〈風景写実試論 その2〉

書くと云う事の多くは好き勝手に成される事を求めています。それは書き手が好き勝手に振る舞い書いて、読み手が好きに読み、その結果で優劣を述べると云う様な事でしょう。それは一側面として認めなければならず、同時に冷たい視線で見られる問題です。

事実の最小単位は詩である、みたいな事を何処かの詩人は云っています。

忘れない様にお断りしておきましょう。風景写実とは心理描写で描けない諸々の文章的な行いを示します。一部混在しているのでご注意下さいませ。

では風景を写実するのは詩なのか?と問われると、いや別に何でも宜しいのでは?と思います。

風景描写なり、写実なりで書いているもののグレードが飛躍的に上がると云うのは余り無いかと思います。その文章が何度か読まれている内に、「ああこの人は風景もいい」なんて思われたい、と云うちょっと昔の作家の野心にありそうですね。でも、それはついでです。

風景描写は概念や器官でなされるものです、と先に述べました。まあ、それが正しいか否か、検証する価値はあるかも知れませんが、目的を忘れてはなりません。

本稿は求められた時に応じられる技術に付いての試論です。好きに書けている間に求められるものではないでしょう。物語が好きに描いて満たされるものであるなら、それは充分に満ち足りたものなのですから。

〈手軽に小説を書いて楽しもう〉〈楽が出来るなら出来るだけ楽をしよう〉これです!

1飛ばす

飛ばすとは?簡単に云えば、書きたく無いシーンを描かない事です。オブラートに包んで云うなら、書くのに手間がかかりそうなもの〈調べたり、考証の余地があるもの〉を書き飛ばす訳です。シーンAとシーンCの間に必ずシーンBがある筈ですが、Bを後回しにする訳です。

特に風景というのは必要最低限あれば良い訳ですから、まずは飛ばしましょう。

では、必要最低限とは?これは物語の必然性の話題になります。劇中のモノなどの登場は必ず伏線として回収すべし、と云う考えがあるからです。チューホフの名言ですね。

然し、どう思われるでしょうか?最小最短最適な小説って如何なものでしょう?「一言一句無駄がない写実、見事」とか偉い先生に褒められたいですか?

私なら「一言一句重要なものが描かれていない駄作」を目指します。

ひねくれてそう述べている所もありますが、人が恣意的に並べた文字と、ランダムな文字と云うのは異なり、それは文章でも云えます。通常前者に重きが置かれますが、後者には価値が無い価値と云うものがあります。ナンセンスですね。しかも、セリフではない訳ですからこれは興味をそそられます。〈これ等の技術の一部は後で述べましょう〉

話を戻しましょう。風景を飛ばす、書きたい所を書く、基本的なテクニックです。

ただし、これは合理的な作法であるが故に弱点がある事もお忘れなく、既にこの作法でご自身の作品に不満がある方は以下を参照して下さい。

2洞察

洞察と云えば、色々ありますが、人を洞察する事が主かと存じます。例えば、本が散乱して紙や原稿をが散らばっていて無秩序な部屋があれば、ああ、この人は作家志望だったのだ、とわかるでしょう。

これが部屋の住人から見れば、必要に駆られているのにどうしても整理が出来ず、焦りが感じられるかも知れません。

認識によって風景が作られているのだとすれば人物を洞察する事は風景を描き出す手段になりますし、印象的な人物の象徴的な場面とは背景とマッチしている筈です。

ステレオタイプな女性像として、絶世の美女が直立しているとしたら、それは浜辺でしょうか?森でしょうか?荒廃した庭でしょうか?まあ、絵になると云われる人物と云うのは何処にいても絵にはなります。では、簡単ですね、人物から逆算して、背景を足して行く事が可能です。

正しくはシーンというのは物語に属していて、風景とは美術や大道具/小道具/ロケハンのお仕事です。一人の書き手が幾つも仕事を掛け持つのはキツそうですが、能率を上げる為に区分けしてしまいましょう。

脚本家の私の今日の仕事、美術の私の今日のお仕事etc

シーンから洞察するのか、人物から洞察するのか、迷いますが、在るものを広げましょう。飛ばしたものは後から繋げて行きます。

最終手段として他の人〈友達や共同制作者〉に読んで頂きましょう。洞察は〈未知〉を動力に動くものですから、それについて知り尽くしている書き手は洞察の余地を摩耗してしまいます。このことから分かるのは、洞察は入り込んで読むとは限らず、俯瞰と微視の両側面を併せ持つ事です。〈命名と云う具体的な作業は後の機会に譲りましょう〉

3メタファ〈隠喩〉/シンボル〈象徴〉

最小とか最適と云われるものが如何に無駄なく見せているのかと問われれば、それは結局前後との掛け合い、掛け言葉/枕詞になっている事が多々あります。メタファは〈隠喩/暗喩〉ですね。

これがあれば洞察も楽ですし、風景も無駄なくかける、って思いますが、これが異常に膨大な情報量で唖然といたします。簡単に云えば日々膨張している言語活動を示している訳ですから、全然手っ取り早くありません。

経験値がモノを云うのであれば、後回しで宜しいでしょう。

4パクリ/パロディ/オマージュ/サンプリング

率直に申し上げれば、あなたが好きな小説はあなたが今まで読んだモノ、の中にあり、それを借用してくる事が近道だと思います。

作者としての自尊心もわかりますが、これって、上記の「メタファ/シンボル」に関係しています。

パロディは西洋文学ではかなりメジャーなテクニックで、如何に元ネタを隠すか、見せびらかすか、と云うのはインテリの遊びの一つでした。かわいそうにスマホがあればこんなに寂しい遊びに興じる事もなかったでしょうね。

特に叙情的な効果を求めるなら、詩を定型として導入してしまえば話が早いと思います。権利が著者や法人から離れたモノはネット上で閲覧参照が可能です。よくよく読んで、リスペクトを込めて、堂々と、引用しましょう。

5カットアップ/コラージュ/フラッシュバック 文豪達のテクニック

ウィリアム・バロウズは文章をバラバラにしてランダムに並べ、その不可解な心理や精神世界を描く手法を発明しました、これを「カットアップ」と云うそうです。「フラッシュバック」は心的外傷の症状で、それを映像作品に取り入れたモノですね。クロスカッティングの一種と云われる映像手法の一部です。コラージュはブルトン「ナジャ」などで見られますが、シュールレアリストの専売特許ではなく、T・S・エリオットなどもコラージュの手法を使っています。

これ等細かいテクニックは詩、小説、映像、などジャンルを超えて多様化しています。数多あるモノで、且つ、これ等は概念や手段に過ぎません、気が向いた時に手にとってみて下さい。

現代詩的な文の作り方とは表から挑むととても遠い印象があります。即ち理性的で理由を与えられ、認識で説明出来る文として捉える事ではとても遠いのです。それは既に遊びになっていません。裏と云うのは遊びとしての部分が多いでしょう。例えば詩的許容と云うものがございます。詩としての成立の為に文的な精密なルールを破る事です。これは皮肉な事に日常的には頻繁に起こっている事で日常的な言葉や言い回しと云うのは日常的許容の中で遊ばれています。

日本語には押韻の要素が少なく、韻脚の通念がありません。特に黙読と云う文化圏では韻脚は文面に現れてくれないものです。アリストテレス以来、それら概念上で詠われて来たモノとは未だ離れているものです。ただ、研究の題材でないと述べるのは最早難しいと考えます。〈詩人がヒップホップから学ぶ時はそれほど遠くない様に思われます〉

6使ってみよう 

 《女は男の衣類をゆっくりと剥いで、
 温和な心臓に炎を注ぎます》
 ライラックの快楽は、暴落の乗客、
 切断された倫理のデンドロビウムは、辺獄深部に降り頻り、
 《浮きます、打ちます、付け足す、
 足の裏を、噴き出す愛を舐め下さい》、
 沢山の口付けで、拡散は出し抜けに、
 見詰める視線から禁忌を焼却します。

「溺れる鯨と猿の座礁」より

まあいわゆる濡れ場ですね。ただ、動きの中では人の意識は働かないのでメタファで動かしています。ベタなアレですが。ここら辺、心理描写とどう違うのかと思われるかも知れませんが、動きをメタファで表現しようとしてこうなりました。

ここに何がどの様に使われているのか、適度に忘れているのですが、押韻を組む事で文意が崩れる事を多用している事は分かります。押韻のボキャブラリは限られているので、制約と自由さは拮抗していますね。〈善し悪しの判断はお任せします〉

本来、もっと上手な事例を上げたいところです。まあ致し方ありません。

 《其処は古い図書館だ。積み重ねられた書簡は背の丈をゆうに超え、本棚の上部に手を伸ばすには梯子を移動しなければならない、その為の梯子に座っている少女が君だ。君はこの上なく熱心に本を読んでいる。君はこれまで読書家ではなかったが、少女の姿の君は夢中だ。背表紙の様子から、それは恐らく古い本なのだと分かる》
 風が靡くと、カーテンが揺れ、木漏れ日が差し込んで来る、猛烈な蝉の鳴き声が波の様に現われ、緑は光に向かい燃える様に茂っている。何処かで風鈴の音が鳴ったが、それは酷く大きな木製の風鈴だ。不意に、顔を思い出した少女は顔を上げた。

「限りない攣を束ねて〈ep3-1〉」より

《》で閉じられた描写はかなり二人称的で、かっこを持たない文章は俯瞰です。本作でも、二人称で語りかける声《》と三人称は使い分けられています。どちらも句読点の位置がおかしいですね。

これは一人の少女が図書館で読書をしている光景ですが、この図書館は色々な意味でフィクションです。

7結び

今回は、洞察/メタファーから応用出来そうな手法を列挙しました。技術を使うと〈技巧に溺れた〉などと云われますが、そもそも概念がなければ認識ができない訳ですから、作者はアーツの使い手〈アーティスト〉です。無自覚に使っていたアレコレを自覚的に使うのですから、外野の声など気にせずに楽しんで下さい。

〈因みに、「風景写実試論」は軽くトピックを並べたら18に及んだのですがこれ面白いでしょうか?と申しますのも、本稿の最初に述べた通り、基本的に好き勝手に書くのが文章の主導であるからです。小手先のものを並べても余り味わいがありません。技術と云う側面から過去の作品を読むと云う事は大変に面白い研究ですが、結局応用などは別の意図から現れるきがいたします〉

皆様の人物は動いているでしょうか?人物が動くのか背景が動かすのかとか、まどろっこしい事は置いておいて、参考になれば幸いです。

今回は詩のテクニックがけっこうありましたね。

本稿では〈意識の流れ〉と云う手法に付いて述べていません。他にも触れていないものが多々あります。

本試論の中心的課題は風景描写にあり、心理描写ではありません。詩の技術と述べると、日本語の場合どうしても叙情的想起となる為、難しい印象があります。つまり、客観的な情報を適切に小説の風味を損ねず建設して行く時、使い勝手が悪い印象を与えます。〈詩=叙情=主観〉を云う印象の外部に出ると、機械的な組み立てが楽になると云う事かも知れません。

〜〜〜問い

1オリジナルの技術を駆使するのと、既存の技術を駆使するのと、能率的なのはどちらか?


この記事が参加している募集

#noteの書き方

29,516件

宜しければサポートお願いします。