本屋の店員は何でも知らざる
人間は万事を知っているわけではないんだろう。これは別にソクラテス的な意味ではなく単純にしらないのだ。
余談ではあるが、高校の時に初めてソクラテスのことを知った時、「なんだこのめんどくせーおっさん」って思っていた。だって無知の知(不知の自覚)なんて意味わかんないし。「私は知らないということを知っている?」とか歴史の授業中でやった問答法を聞いているとなおさらだ。
それにソクラテスの弁明とかエウテュプロンとかのソクラテスはなんか下手に出ているようで、すごく上から目線である。だから僕の中で「めんどくせーおっさん」という彼の立ち位置は変わっていないが、最後まで自分の信念のまま死刑になったことなどを知り、「この人は頑固でめんどくせーけどすごい人だ」という立ち位置に変わった。
どうでもいい話過ぎた...
今日は何とも微妙な天気の下、家から徒歩2時間の場所に位置する近所のブックオフと三洋堂に本を買いに行った。そこでまだ僕の読んだことのない本、古本などを買った。例えばグレートギャツビーとかとか
三洋堂で買い物している時、ふと思い出してキャッチャーインザライが猛烈に欲しくなった。腹が減った豹が木の上から獲物を見つけた位。
それから本屋中を探せどない、ない、ない。「おいおい嘘だろ。この世の本屋から消えちまったのかい?まるで神隠しじゃないか」と思った。しかしそんなこと言ったって本は返って?こない。
となれば次にやることは一つ。店員さんに聞くことだ。
僕は極度の人見知りなので、店員さんに話しかける事も苦手だ。例えばスパイクを買うとき試し履きをしたくても店員に話しかけられず、試着せずスパイクを買って靴擦れをしてしまったことがあるくらいだ。
しかし豹はそんなことをしない。死んでしまうから。僕は意を決して店員さんに話しかけた。
「キャッチャーインザライありますか?村上春樹訳の」
「すみません、キャッチャー何ですか?」
「キャッチャー・イン・ザ・ライです」
それから少し無言の間が続いた。
「あの、J・D・サリンジャーの本なんですけど。それを村上春樹が翻訳した本なんですけど。」
「サリンジャー…わかりました。検索してみます」
挙動などを見る限り、サリンジャーもライ麦畑でつかまえてもキャッチャーインザライも知らないみたいだ。(ライ麦畑でつかまえてというワードは出していないのでそれは知っていたかもしれないが)
僕らの会話の中で唯一、知識が一致したのは村上春樹だけみたいだ。
「そちらの本は店頭にはありませんし、問屋にもないので、出版社から直接お取り寄せになりますがどうなさいますか?」
「それなら、大丈夫です」
腹の減らした豹みたいな僕も獲物がなかなか隙を見せなかったら腹が減ったことすら忘れてしまって、目的を失うみたいだ。
しかしこの経験はある一つの事を僕に教えてくれた。
本屋の店員でもサリンジャーを知っているとは限らない。
これは大事なことな気がする。確かに普通に考えれば分かることだ。
ラーメン屋の店員が二郎を知らないことだってあるし、ピアノ弾き全員がリストを知っているとは限らない。中には知っている人もいるかもしれない。でも全員ではない。ラーメン屋の募集要項に二郎食べたことある人やピアニスト指南書にリストを聞いたことない貴方はピアニストなんかじゃありませんとは書いていないだろう。
つまり本屋の店員になるためにはサリンジャーを知っているかどうかはどうでもいいということだ。世の中そうやって回っているのだ。自分の等身大で貢献できればいい。背伸びをしたところで特に意味はない。(全部が全部意味がないわけではないが)
何故なら本屋の店員でもサリンジャーを知っているとは限らないから
追記 どうでもいいけど歩いて本屋行ってやった
筋肉痛なりそう…
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