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「愛」の対義語

マザーテレサは、愛の反対語は憎しみではなく、無関心だと言った。そうかもしれないって、やっとこの頃、思うようになった。
「愛」なんて一言では語れないし抽象度高すぎて簡単には論じられないけれど、自分を振り返ってそんな側面もあるよな~って事だけれど。

ここでの「愛」は人に向ける気持ちくらいの意味合いで書いている。情愛とか熱愛とか恋愛系ではなくて「親愛」みたいなワードで示される程度の、自分の周囲にいる人達に向けての「親しみ」くらいな軽い感情。
幸いなことに、周囲の人のほとんどは、「好き」とか「どちらかと言えば好き」とか「好きじゃないけど、嫌いって程でもない」と上下はあるけれど概ね「好感」が持てる範疇にいる。
その他は知らない人、関わりが薄い人などはどっちでも良いな~なんて感じるけれど、自分には「嫌い」な人ってほとんどいない。「好きじゃない」とか「苦手」な人はそこそこいるけれど。

「嫌い」っていうのは積極的な感情の発露で表現で、その人のことを強烈に意識してるってこと。嫌いになるほど、嫌な人には、敢えて関わらないようにしている。「嫌い」になることは、大きなエネルギーが要るしそれは自分を消耗させる。そんなつまらない相手のことで、自分の時間や感情が消費されたくないと思う。好きなものに目を向けて、思い通りのことをするのが、精神衛生には大事。

心底呆れて、まともに相手にしたくないって同僚が1人だけいる。その方の特性があるのかもしれないけれど、それを差し引いてもお手上げ。多少の理解はしなくちゃって部分はあるけれど、そんなことに囚われていたら、自分の方が参ってしまう。自分の課題かもしれないけれど、マザーテレサみたいな博愛には全然届かない。
明らかに無視するとか、悪口を他の同僚と言い合うとか、そういうのは積極的な「嫌い」の発動なので、慎むけれど、自分の心の中から彼女のことは抹消することにした。同僚としての最低限、挨拶とか質問には答えるとか、モラルのある行動をするけれど、何かを教えるとかプライベートな会話をするとか、そういう親しみを目的にした関わりは自分からはしないことにした。会社の中の人間関係は悪くない方が良い。最低限関係性を維持するためのことはしなくちゃって思っている。

そんな自分のことから、「愛」の反対は無関心って一理あるなって思った。人に振り回されたくなければ、距離を取ることは良い方法だと思う。
自分ももっと精神的に成熟して大らかになって受け入れできる器を目指すことも大事だとは思うけれど、現時点でできないことは多々あって、今の最善を見つけたいって思う。