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クリアで元気なご長寿の切なさ

月の中程は、担当の利用者さんのお宅に伺い、体調の確認やサービスの満足度とか生活の状況などをお聞きする。いわゆるモニタリング
毎月毎月の訪問は鬱陶しいと思われたりしないか、とか面倒くさくて敬遠したいのではとか、気を遣ったりする。こっちも正直、気が重くなるような利用者もいるけれど。

でも、大半はケアマネの訪問を歓迎して下さる感じで、ひととき、あれやこれや雑談をする。雑談だけれど、無駄話ではなくて日常生活のあれこれを確認するために、日常のことや日頃思っていることなどを心置きなく話してもらう。

今日も、そんな一コマ。要支援の独居のかた。御年93 昔は学校の先生をされていて、俳句とか短歌が趣味。近隣とも多少行き来はあって、県外に嫁いだ娘三人が交代でほとんど毎晩電話をくれる。デイサービスは週2回、楽しんで利用している。人的資源はかなり恵まれている方だと言える。
知的水準、文化的水準はかなり高めで保たれている。長生きするなら、この方のようになりたいな~みたいなモデルと言っても良い。

その方との会話の中で、親しくしていた友人・知人の訃報を聞いたり、自分の兄弟とか縁のある人と連絡が取りにくくなり、伝手を頼って消息を知った時には認知症を患ったり、倒れた後遺症とか骨折、転倒で具合が悪い状態だったりする。同年代や年下の人達が、年老いていく、悪くなっていくことがとても切ない、みたいな話になった。

時々、かなりの高齢となっても矍鑠(かくしゃく)として、自分のことが自分でできて、いわゆる頭がしっかりしてる方がいる。
それはとても尊いことで、素敵なことで、恵まれていることと肯定的にしか自分は捉えていなかった。
けれど、自分の親しい人達が減っていくことや変わっていく姿を目の当たりにするのは、残酷でやるせないことだと知った。
年を重ねたら、楽になるような気がしてたけど、その分だけ課題も重くなるのかもしれない。

認知症という病態があって、それも切ないものだけど、認知症の症状とは無縁な方は、忘れることが少なくて、思考が整っていろいろ考えられるので、哀しみは強いのかもしれない
いくつになっても、悩みはあるし乗り越えなければならない壁もある