「理想の上司 管理職は、かくあるべし」 サラリーマンあれこれ#7
退職前の最後の上司
先日、元上司の退職引退送別会に参加した。
この会社では僕の最後の上司だった人。
彼は64歳。常務取締役まで上り詰め、これまで共に過ごした多くの元部下が集う華やかな送別会で、褒め殺しが如くの感謝と慰労の言葉を受けていた。
サラリーマン冥利の頂点と言っても良いだろう。
昔から偉ぶらない人だった。社長や役員を目指すようなタイプではなかったと思う。
そんな彼がいつも言っていたのは、「自分のできることは、やる」
難しい案件に直面して相談した時も、トラブル対応処理の報告をした時も、部下の昇進に必要な評価UPをお願いした時も、「自分のできることは、やる」だった。
彼は、決して素晴らしいアイデアを出してくれたわけではないし、先頭に立ってトラブル対応をしてくれたわけではない。
常に前向きに、常に明るく、「フレッドちゃんならできるよ~」なんて言いながら、自分ができること、できないことを冷静に見極めて、淡々と事を進める人だった。
「分をわきまえている」と言えばいいだろうか。
どちらかと言うと動物的かつ感情的な僕は、もう少し熱くなって一緒に闘ってほしいと思う時が少なからずあった。
でも今にして思えば、彼が発する「自分のできることは、やる」は、僕の提案に理解と合意を示し、組織全体のバランスを取りながら彼なりの最善の手を打ってくれていたんだとわかる。
派手さはない。でも周囲との良好な関係を築き、組織を動かせる人だった。
そして、見えないところで人知れず努力をする人だった。
決して人には強要することなしに。
僕に一番欠けている部分だと認めざるを得ない。
長年のお勤め、お疲れさまでした。
彼からは、しなやかに生きることの大切さを学ばせていただいた。
上司の言葉
38年間もサラリーマンをやってきたから、多くの上司に仕えてきた。
良い意味でも悪い意味でも、それぞれに思い出深い人達だ。
上司と言っても、駆け出しの頃には、主任・課長代理・課長・部長・事業部長・本部長・役員・社長まで、とんでもなく多くの上司が存在する。
僕が新人の頃には、せいぜい見渡せるのは課長くらいまでで、部長なんて話したこともないし、どんな仕事をしているのか想像もつかなかった。
直属の上司が僕に放つ言葉は、果して彼の本心なのか、はたまたその上の上司の意思なのか。
上司の言葉を理解するには、その位の想像力は必要だろう。
本音は往々にして別のところにある。
僕自身が部下を持つ身になって、ようやくそんなことが分かるようになった。
入社後初めての上司
5年上の主任はオトコの中のオトコ、かっこいい男気の人だった。バリバリの営業成績、それも既存顧客からではなく次々と新規顧客を獲得していた。
自慢することもなく淡々とビジネスの楽しさを伝えてくれた。「おまえもやってみな」と開拓した優良顧客を僕に何社も分け与えてくれた。
何度も自宅に招いてもらい、飲みにも連れて行ってもらった。可愛がられている実感があった。
課長や課長代理からの理不尽な要求には断固戦い、決して引き下がることはなかった。喧嘩になるんじゃないかと冷や冷やしたのも一度や二度ではない。
仕事をさぼって半日どこかに雲隠れしていた部下には、これでもかと言わんばかり説教をしていた。
自分を厳しく律し、曲がったことが大嫌いな人だった。
長く剣道をやり、有段者であったのも頷ける。
熱いハートを持つ人だった。
でも、サラリーマンとしては、そのハートは熱過ぎたんだろう。
十数年後、彼はパワハラの責めを受け、管理職から平社員へと降格になり、見る影も無い人になっていた。
彼が降格になってから一度だけお酒をご一緒した。
元気付けようと色々とりなす僕に彼は言った。「もう俺のことは放っておいてくれ」「俺は決して後悔してないぞ、最後まで信念を貫いたからな」
彼は定年になるまで、いわゆる窓際と呼ばれる部署で、非主流製品の一営業マンとして過ごし続けた。
敗戦処理のような営業組織から、時に彼の手による信じられないような大型案件受注の噂が聞こえてきた。
どんな環境であろうと売り続ける孤高の営業マン。
頭が下がる思いと同時に、組織における処遇が残念でならなかった。
主任、ありがとうございました。
僕はあなたからビジネスの「いろは」を学びました。熱いハートも。
次の上司へとつづく
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