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おせっかい、していますか

『となりのチカラ』を見ながら、そういえば「おせっかい」という言葉、最近全然聞かなくなったな、と思った。

そもそもドタバタの「世話焼きのおばさん」という人種が、少なくなったような気がする。

おせっかいなおばさん、おじさん、というのは、もう絶滅危惧種なのだろうか。


『となりのチカラ』は、少し語弊のある言い方で紹介すると、おせっかいなチカラが、同じマンションに住むさまざまな住人の悩みに次々と首をつっこんでいく、という一話完結型のストーリー。

おせっかいな人、といえば、とにかく「わたしがわたしが」と頼んでもいないのに、余計な世話を勝手に焼いてくれるイメージだが、チカラは同じおせっかいでも、違う。

とにかく優柔不断で、頼りなく、いつもオドオドしているのである。そして、「助けたいけれど、あーすれば嫌われるかも」とか、「こーしたいけど、そしたら向こうも困るかもしれないし」とか、でも、でも、とモジモジして、いつも気になる住人に声をかけるまでに、時間を費やすのである。


「そんな優柔不断なチカラが問題を解決する」

…といえば、ドラマとしても格好がつくのだけれど、全然そんなことはなく、結局そんなチカラを見かねて背中を押すのは、奥さまである灯(あかり)ちゃんだ。

(灯ちゃんみたいな人が近くにいたら、心強いだろうなあ。) 


では彼は何をしているのか。

というと、悩んでいる人に「自分がここにいるということを忘れないでほしい」と伝えるのである。そして、住人に怪訝な顔をされ、迷惑そうな顔をされても、「力になりたい」と懸命に訴えるのだ。

あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ


チカラを見ていると、『のび太の結婚前夜』でしずかちゃんのパパが言っていた、こんな言葉が降ってきた。

それが、チカラなのだ。


 ☆

おせっかいな人と接するとき、わたしは何を聞かれるのだろうといつも緊張していたし、台風が過ぎるのを待つみたいに「早く帰ってくれないだろうか」と思っていた。

向こうが「親切だ」と主張しても、どうしてもそう思えない。

土足でずかずか、人の心の畳に上がりこんで、「じゃますんでー」とばかりに、あれこれ家の中のものをさわりまくり、ケチをつけてくるようにしか思えなかった。

吉本新喜劇みたいに、「じゃますんねやったらかえってー」と言えたらどんなにいいかと思ったが、そんなことはもちろん言えない。


人の心の畳にあがるときは、せめて、「あがっていいですか」って聞いてくれないかな。

そして、靴を脱いで上がってくれないかな。

家の中のおいてるものにも、手を触れないでくれないかな。


ずっとそう思ってやり過ごしていたら、時代の波に飲まれたのだろうか、身がくれしているだけなのだろうか。気づけば「おせっかいな人」はわたしの周りからだんだんいなくなっていった。


「おせっかいな人も、いなくなったらなったで、なんかさみしいかもなあ」

ドラマを見ながら一瞬でもそう思ってしまった自分に、驚いた。

見てはいけない白髪を見つけてしまったような、その白髪はもう黒髪にもどることはないと知ってしまったような、ちょっとピリッとした静電気ぐらいのショックを受けてしまった。



ああ、多分歳だ。

これは白髪だけの話ではない。

わたし自身がその場所から離れていったのだ。


それはもう、誰からもそういうふうにおせっかいを焼かれなくてもいい年齢になってしまった、ということ。

それに対する、淋しさ。

けれど、求められるその年齢に達するほど、自分は全然成長できておらず、周りと比べて何も経験できていない、という焦り。

一方で増えていく、生きる責任。


年齢を重ねれば重ねるほど、孤独を感じやすくなるのは、こういうそれぞれの広がっていく「溝」からくるのだろうな、と思う。


 ☆

チカラは、ニュータイプのおせっかいだと思う。

人の心の畳にあがるときに「あがっていいですか」と聞いてくれるし、靴も脱いであがってくれる。できるだけ、家の中のものにも手を触れないようにしてくれる。(不注意で触れているときもあるけれど)


ただ、聞く。
ただ、辛いのをわかってくれる。
ただ、そばにいてくれる。

大人も子どもも関係なく、今実は必要なのは、こういうおせっかいなのではないか、と思う。



本当は声はかけたい、助けたい、気になる…けれど面倒くさいやつだと迷惑がられてしまうかもしれない。

そんな「おせっかい心」を抱えている人は、密かにいるんじゃないだろうか。

逆もまた然り、「声をかけられたい人」も結構いるはずで、双方ともいざ行動に移すとなると勇気がなくて、結局何もできないままで、なんとなく流れていってしまう。


確かに人は面倒くさい。

自分の思い通りにならないし、逆に面倒くさがられて嫌われる可能性だってある。

正直、怖い。

けれど、それは難しくて面倒くさくて、当たり前のことだと、最近思う。

人間関係に、正解も方程式もないのだから。


その面倒くささをそこで終わらせてしまうのか、それとも種としてしっかり育てていきたいと思うのか。

少しずつチカラに心を開いている住人の姿を見ると、面倒くささを種として育てていった結果が今、なんとなく表れているところのような気がする。


 ☆

思い起こせば、自身、人との関係を自分から切ったり切られたり、それでショックを受けることも多かったし、「傷つくのが怖いから」と、人とつながりを持つことを、極力控えてきた。


けれど、このドラマを見てから、最近はゆっくりでもたくさん失敗しながらでも、ちゃんと糸のように人間関係を紡いでいけるようになっていきたい、なんて思っている。

そして、面倒くさいの先にあるものや、方程式や正解を超えたものを見てみたい。

これはドラマだから、上手くいくのかもしれないけれど、面倒くさいの種の成長が、現実でも見れたらいいな、と思う。


『となりのチカラ』の最終回。
一体どういう風になるのかが楽しみだ。

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