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さようなら、おかえり 【#本棚】


お葬式の夢を見た。

まわりがてきぱきとテーブルを並べたり、お寿司を準備している中、わたしは喪服を着て、肩をふるわせながら涙が流れるままに泣いていた。

どうしてもっとやさしくしてあげられなかったんだろう。
どうしてもっと娘らしいことをしてあげられなかったんだろう。

わたしは何もしてあげられなかった。

本当の意味で本当にその人が居なくなってから、わたしはずっとそのことばかりをぐるぐる考えていて、自分を責めていた。

夢の中で亡くなったのは母だった。


夢か、と思って起きたら5時だった。

真っ暗ではないけれど、まだ外は薄暗く、じんわり目に涙が滲んでいる。

いつかその日はくるけれど、嫌な悲しい夢だった。

娘として、何もしてあげられていない。

目覚めたあとも、ずっとその後悔の気持ちだけが残っていて、それから全く眠れなかった。

だんだん空が青くなり、涙はいつの間にか乾いていた。


 ★


こんな夢を見たのは、昨日読んだ「サークルオブライフ」に関係しているのかもしれない。


「サークルオブライフ」は、『さようなら、私』のなかの短編だ。

「あんたの母さん、死んだってさ」
春子おばさんから、ホームレスになった母の訃報を受けたあと、楓は偶然にも、急きょカナダへ出張に行くことになった。

カナダは楓の生まれ故郷だが、幼い頃の記憶からずっと避けていた地だった。

しかし、母が亡くなったのを機に、唯一遺された古びた花柄のスーツケースを持って、自分や母と向き合うことを決心する。


バンクーバーのダウンタウンの街並みや食事を楽しんだあと、近くにあるリーンキャニオンパークの自然に楓が足を踏み込んでいくとき、初めて楓は自分の原点に触れることになる。

一歩進むごとに、幼くなっていくようだった p189
リーンキャニオンパークを歩いているのが、大人のわたしなのか、子どものわたしなのか、ふとわからなくなる p189


カナダ滞在最終日にも、楓は再び花柄のスーツケースを持って、リーンキャニオンパークを訪れるのだが、そこで初めてスーツケースの中を開けることになる。

入っていたものは、まさに楓が今まで忘れていた大切なものだった。

もし目の前にあの頃の小さな自分がいたら、私はその両手で、ぎゅっと抱きしめたい p211


花柄のスーツケースは、お母さんから楓への贈り物だったのだ。

 ★

「大切なものはなくなってから気づく」というが本当にその通りで、もうこの世に存在しない、という現実が起きるまではわからない。

大切なものが存在するうちは、違う別のものを求めがちになったり、魅力を感じていたりしている最中だから、目に入らないのだろう。

「後悔のない人生を」と言うけれど、後悔のない人生なんて多分なくて、それを少なくする、あるいはどこかで相殺する、という努力しかできないのではないかと思う。

春子おばさんは言う。

「先に死んじゃうって、ずるいよね。残された人達ばっかり、いつまでも罪を背負わなくちゃいけないんだから」p215

後悔はなくならないけれど、罪は少なくしたい。

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この夢を見たあと、久しぶりに実家に帰った。母は変わらず元気だったので、ホッとした。


インフルエンザの注射が痛くて嫌だったとか、祖母がやらかしたおもしろ話とか、そういう話をぼつぼつしながら、そういえば誰かとこんな風にふわりと流れるように会話をするのも、久しぶりだな、と思った。

それはなんだかとても新鮮で、心地よかった。


寒かったこの日は、母が作ってくれたシチューを食べた。

鶏肉、しめじ、にんじん、ブロッコリーがふんだんにもり込まれた、真っ白なシチュー。それにプラス、誰かからもらったという高級なハム。シチューとご飯は別々だ。

スプーンからシチューをひと口ずつ運んでいくたびに、あたたかさがお腹に落ちていく。

あまり言わないけれど、いつの間にか「美味しいなあ」と言っていた。

「別にいつものルー使ってるねんけど」と言われたけれど、美味しかった。

美味しい、と言いながら母の作った料理を食べることは、娘としてできることのうちのひとつに入るのだろうか。わからないけど、勝手にリストに入れとこう、と思った。

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夢占いでお葬式の夢について調べてみた。

お葬式は人生の終わりを迎える儀式であり、「一区切り」「新たな出発」を意味し、意外にも「吉夢」らしい。


さらに親の死は、自分自身で人生を歩んでいこうという独立心の象徴、自分の気持ちが変化したことの表れだという。

夢の中に見る「親の死」は、あなたの成長のしるし、思い切って一歩踏み出しましょう、とも書いていた。

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人生は直線で考えがちだ。

「今より前進した」と考えたらそれは良いことのように思えるし、「今より後退した」あるいは「止まった」と考えたら、それは悪いことのように感じてしまう。

人と比べやすくなるのもよろしくない。あの人はこんなに進んでいるのに自分は全然進んでいないとか、自分は止まったままだとか、どうしてもそういう風に思いやすくなる。


けれど、人生を円で考えたなら。

円で考えたなら、「さようなら」は大切な原点にもどる言葉でもあるのではないか、と思った。

そして、何かに「さようなら」を言うたび、大切な原点は芽吹いていく。なんだか矛盾しているようだが、「さようなら」は、同時に「おかえりなさい」でもあるのではないか、と思った。

それをぐるぐる、繰り返しながら人生は回る。

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春子おばさんの言う通り、楓は今度はカナダに1人で行くことはないだろう。

「ねぇ、今度みんなでカナダに来ようよ」p218
「カナダは、わたしの生まれ故郷だもん」p218

楓にとって、カナダはもう避ける土地ではない。

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吉夢をみたけれど、正直何に対してどう一歩を踏み出したらいいのかよくわからない。

けれど、「わたしなんていなくていい」とか、「役に立たない」とか、何かあると自分をそんな風に思ってしまうことを、少しずつ辞めていこう、と思った。

年齢とか能力とか時間に縛られず、なんでもやってみよう、と思った。

良いことばかりではないけれど、わたしの原点はやっぱりここなのだ。

またシチューを食べに来よう。

そう思った。



↓参考にしたホームページ


ありがとうございます。文章書きつづけます。