普通が殺されるとき
「変わってるね」は果たして、告げられて嬉しい言葉なんだろうか?
もちろん世の中には「変わってるね」と言われたい人が存在することは知っている。「人とは違う、そう感じさせて欲しい」そんな空気を感じれば、こちらも「変わってるね」を褒め言葉として使うこともやぶさかではない。
でも自分の場合、「変わってるね」よりも。大抵は「面白いね」「こだわり派だね」という言葉を使うことを好んでいるようだ。
おそらく、自分が「変わってるね」と言われるのが苦手だからだ。
「変わってるね」は「面白いね」とは異なり、相手と自分の間に「普通」「普通ではない」と明確な線を引く。私の考える普通の中に、あなたは当てはまらないと告げられている。
それを称賛と捉えられるタイプ、疎外感を覚えるタイプがいて。
自分の場合は後者なのだ。
好きな事に対しての「変わってるね」は、昔から幾度となく言われてきた。
でもそれは自分にとっては当たり前で、普通のことばかりで。だからだろうか、どことなく疎外感を覚える台詞だと感じてしまう。
「あなたはそうなのね」と認められるのではなく。
「あなたは違う世界の人だ」と、線を引かれているような心持ちになるのだ。
どうしてこんな話を始めたのかというと…
子供時代に読んでいた"今でも捨てられないセレクト絵本集"を引っ張り出して、友人に見せていたら。「子供の頃から趣味が変わっとったんじゃね」と、何気なくつぶやかれたことが発端だ。
これらが最高の絵本とは思えど、変わっているなんて考えた事も無かったので。「そう?」なんて何気なく返しつつも、内心では(えっ!?)が飛び交っていた。
大人になった今見ても「素敵だな」と思うのだから、言われてみれば子供好みの絵本ではないかもしれない。海外ものがほとんどで、絵柄も色味もどちらかといえば渋い色合いだ。「絵が怖い、色が暗い」というのも、否定は出来ない。
でも久々の「変わってるね」は、結構ぐっさりきた。
補足しておくと、彼女の言葉に悪意があったから刺さった訳ではなくて。
その逆だ。彼女の言葉に悪意がなかったからこそ、刺さったのだ。
自分の普通は当たり前、あなたの普通は変わっている。
そう告げられた瞬間、"私の普通"は殺される。
世界を満たしているのは、あなたの普通。では"変わっている"、そんなレッテルを貼られてしまった我が普通は一体どうなってしまうのだろう?
彼女の言葉で怒ったとか、悲しんだとか…そういう話ではない。彼女の事は相変わらず好きだし、否定的な感情はない。ただ「ああ、また自分の普通が殺された」そう感じたこの時の感覚を、書き記しておきたかっただけなのだ。
あるいは。インターネットという広大な海を通してなら、どこかの誰かとこの感覚を共有できるかもしれないから…という打算もあるのかもしれない。
人はそれぞれに違う。だからこそ、その違いを誰かと共有できた時に心は震えて…そんな感覚を共有できる誰かの為に、こうして言葉という目に見える形に胸の内のあれこれを落とし込みたくなってしまう。
自分の「書きたい、言葉に変換したい」という欲求は、もしかしたら殺されてきた沢山の普通からできているのかもしれない。
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