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教育をつまらなくしている原因はこれだった!?クラスごとの比較が教育を腐敗させる!

「○○先生のクラスは〜だよね」
「○組より○組の方が〜だよね」

このような言葉は、保護者間、子ども間でよく耳にする言葉だろう。一つ付け加えておくと、教員間でもよく飛び交っている言葉でもあるのも事実だ。

クラス(学級)という存在がある以上、クラスごとの比較が起こるのは必然と言えるだろう。

しかし、

「まぁ仕方ないよね」で済ませられるような問題ではない!

とボクは感じている。

実は、このような比較が起こることで、現場では非常に大きな損失を生んでいるのだ。

つまり、教育の質が著しく下がり子どもの成長を阻害しているのである。


このことに、強い危機感を覚えていたボクは、この「クラス間の比較」という問題をとりあげずにはいられなかった。

今回は、「クラス間の比較」がもたらすデメリットについて深掘りし、現状を打破するきっかけを提示していきたい。


先日、ボクはこんなツイートをした↓

クラス間の比較はいたる所で起こっているのだが、上記のような図工の作品の比較は非常にわかりやすい例といえる。

簡単に説明すると、学校では、図工の作品が完成するとクラスの廊下に掲示するのが一般的なのだが、このように、クラスごとに掲示することで、クラス間の比較はいとも簡単に生まれる。

つまり、クラス間で作品の出来栄えの違いが一眼でわかるようになるのだ。もちろん、個々人の得意、不得意はあるのだが、全体として(クラス単位)としての比較が可能になるのだ。

なので、クラスごとに作品を見比べて「○○先生のクラスはちゃんと指導されていますね」などと評価する同僚や管理職がでてくる。

授業参観の際には、他のクラスと見比べて担任を評価する保護者もいる。


さらに、「○○先生のクラスはしっかり指導していますか?」と指導されてしまう原因にもなるのだ。

このように、比較に加えて、如実に評価まで入ってしまうと、次に先生たちがとる行動は明らかだろう。

そう、ツイートでも記したように、子どもに完成度を求めるようになるのだ。

「いい評価をされたい」「非難されたくない」と思うのは人間の根源的な欲求だ。

子どもの中で「もうこれで完成!」と思っていても、先生は「もっとここをこうしなさい」と指導してしまう。

この完成度で掲示するのはまずい!と先生が思っているからだ。

元来、アートというものは誰かに指図されてやるものではなく、自己の表現を根ざしたものであるのに・・・。

その結果が「先生、これで完成でいいですか?」という子どもたちの言葉だ。

自分で自分の作品が完成したかどうかも判断できず、先生の顔色を伺い、許可をとる。

こんなにも本質を見失ったアートの授業があるだろうか・・・。

これは、アート教育の最大の失敗ともいえるだろう。


このように、クラス間での比較の末に苦しむことになるのは子どもたちなのだ。

大人同士のつまらない見栄の張り合いのために「子どもの健全な成長」を阻害してはいけない!!

また、この比較の目に耐えられず、心を病んでいく先生たちの数多くいることを忘れてはいけない。

ただでさえ資源の少ない日本において、教育こそ導きの星でなくてはいけないはずなのに・・・このような現場ではお先が真っ暗だ。

まずは、

「クラス(学級)」という単位を少しでも薄くしていかなければいけない

と思う。

今回例にあげた、図工の作品掲示で言えば、クラスではなく、学年ごちゃ混ぜで掲示するなどの工夫が必要だ。


「隣のクラスには無断で入ってはいけません!」なんて低!低!低レベルなことを言っている場合ではない!

未だに「学級王国」なんて言葉が存在していては世界から取り残されていくだけだ。

教育先進国は、学年という概念すら取っ払い始めているのに。

これからの時代は

「分ける」より「混ぜる」

だろう。

混ぜてしまえば、比較などつまらないものは消滅する。


教育から「比較」を排除し、一人でも多くの子どもや先生が救われる教育が実現することを願っている。


以上、ガクせんでした。

最後までお読みいただきありがとうございました。

良い一日を!

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