『贈り物経済』の循環。
秋田県の田舎で生まれた私は両親や祖父母、そして大地からの見返りの求めない「贈物文化」の中で育った。
毎年、秋になるとお米や梨が土地いっぱいに実る。畑に行けば野菜や果物が手に入れられるし、山に行けばきのこや山菜がそこらじゅうに生えていた。
収穫したものは自分たちが食べる分以外すべて近所の人たちに「おすそ分け」してしまうし、専業農家の生活のための「商品」である梨やお米でさえタダで配ってしまうのだ。
そんな両親を見ても「なんで苦労して育てた食物をタダであげちゃうんだろう」と不満に思うことはなかった。
それは、「お互い様」の精神が根付いていたからだと思う。野菜をあげたお隣の家は鶏を飼っていて鶏卵をくれる。お米をあげた向かいの家は漁師さんで魚をくれる。梨をあげるとケーキになって返ってくることもある。
誰もそこに対価を求めているわけじゃない。ただ、「お互い様」なのだ。私の身近では「贈り物経済」がちゃんと成立していた。
他にも「贈り物経済」と呼べる、こんなエピソードがある。
弟ができたとき「お姉ちゃん」という家族の中での役割を与えられた。幼いながらに、まるで会社の重役を任せられたかのように身が引き締まったのを今でも鮮明に覚えている。
私の弟。私だけの弟。私にしかいない弟。
『弟が生まれると今まで注がれていた全ての愛情が弟にうつるから寂しかった』という話をよく耳にするが、少しもそうは思わなかった。
寧ろ、注がれすぎた愛情という名の水と肥料を生まれてきた次の命に沢山分け与えたくて仕方なかった。
愛情を注いだ分だけ、私を好いてくれる弟。家に帰ると、「おねえ、おねえ」とかまって欲しくてしょうがないような猫撫で声で寄ってくる。それが堪らなく、愛しい。
「好かれたい人に尽くすこと」は「その人にとって嬉しい贈り物を届けること」と似ている。「媚びを売る」を悪だと捉えるのは間違っていて、「好意を抱く相手には全力で媚びろ」と声をあげて言いたい。
一方的な恩の押し付けじゃない、「受け取った相手がどんな表情をするかを思い浮かべられる贈り物」を届け続けたい。
近頃、「自分のために生きる」「自己投資しろ」「自分を幸せにできなければ相手を幸せになんてできない」なんて言葉をそこらじゅうで目にするようになった。
「自分」を軸にした成り上がり成功論も確かに間違いではない。自分を大切にすることが、自分を幸せにすることなのも。
ただ、自分のためだけにお金も時間も何もかもを費やすことが本当の意味での幸せなのかもう一度だけ己に問いてほしい。
どうか、自分の幸せばかりを願って周りにいる大切なあの人をおざなりにしないでほしい。感謝してる人がいるなら、小さな贈り物をしよう。高価じゃなくていい、綺麗じゃなくていい。特別日じゃないからこそ、贈ろう。
日常を『特別』にしよう。
ただただ、相手を一生懸命に想いながら、贈り物を選ぼう。
『贈り物経済』をもっと滑らかに、循環させよう。
私が未来に望むのは『人から人へと贈られる温かいナニカ』で繋がる社会なのかもしれない。
いただいたお金は全て息子に捧げます