見出し画像

〇害は忘れたころにやってくる

高齢者を老害よばわりするのは政治家をファシスト呼ばわりするのと同じで、言ったら終わりというか・・そのさきは思考停止するだけのつまらない言葉だ。しかし語呂がいいのでタイトルに使いたい誘惑に勝てず「〇害」とした。明日は我が身ということで以下を書いておきたい。

こないだ近所のスーパーにいったら入口の自動ドアの前に車を止めている男性がいた。高齢者だ。駐車場はたっぷりと空いていており、店舗に一番近い列にも空きがあったにもかかわらずだ。

男性の停めている場所には一台分くらいの空きがあったが駐車スペースではない。理由ははっきりしている。歩行者の出入りが多いからである。

駐車場というのは意外に事故が多い。クルマはつい30kmくらい出してしまうし、人は平気で車の間から飛び出してくるからである。

だからそのスーパーの入り口付近もわざとあけてあるのだろう。繰り返すが駐車場の一列目に空きがあり、そこにとめれば数歩で入店できる。それにもかかわらず男性は入り口の真ん前にクルマを停めていた。万一ブレーキとアクセルを踏みまちがえれば歩行者をはねてしまう。

認知症には見えなかった。「空いている場所に停めて何が悪いんだ」と思っているように見えた。わずか数歩分をせっかちになっているのである。そして考えが狭くなっている。ブレーキとアクセルを踏み間違えたら、ということまで考えが及んでいない。

この考えの狭さはぼくの父親にも当てはまる。もともと考えのせまいひとだったが80を超えてからさらに狭くなった。認知力検査に落ちて運転免許を失ったのだがそれでも無免許で車を乗り回していた。問いただすと「つかまらなければいい。警察のいない道を通っているから大丈夫だ」と言う。

ぼくが買った車だけど置いておくと無免許で乗り回すので、やむをえず弟が処分した。いまはママチャリしかないので不便だ。

弟は認知症を疑っているがぼくにはそうは思われない。たんに気が短くなり、視野が狭くなっているだけだ。ただし、そうは言ってもこれはこれで問題である。

考えというのはある日とつぜん狭くなってくるわけではなく、年月をかけてじわじわと狭まってくるわけで、本人にはなかなかわからない。ぼくだって若いころに比べてどうだかわからない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?