夜になれば話は別だ。
だれにでも「心の支え」ってやつはある。元気な時には、そんなものはどうでもいいような気で生きているが、やや弱ったときには「心の支え」があるかどうかが大きい。
弱ることのない人間などというものは存在しない。
夜になれば話は別だ
ヘミングウェイの『陽はまた昇る』という小説の中の有名なくだりにこういうのがある。
主人公のジェイク・バーンズは、このときたぶん泣いているのだと思う。泣いているとは書かれていないが、「夜はハードボイルドでいられない」ということは、メソメソしているということだろう。
どれほどクールを装っている人でも、夜になれば弱ることはある。そして、ぼくはそれほどクールを装ってはおらず、夜になれば確実に弱る。
わが心の支え
ほら、家族の立てる足音やドアを閉める音は、それぞれ特徴があるので、闇の中でもだれがいま歩いているか、だれがドアを閉めたのかはなんとなくわかるでしょう?
ぼくもそうであり、今日、闇の中に寝転がって認知症の父親が立てる足音やドアを閉めるガサツな音を聞いていると、ふと、どうしようもないような、奈落の底に落ちていくような気分に落ち込んだ。昼間はこんな気分になったことは一度もないので、やはり「夜になれば話は別」なのだと感じる。
しかし、そういうときに「心の支え」が支えてくれるのである。たとえば、音楽だ。学生の頃からジャズを聴き続けてきたけど、ほんとうにありがたいのはこういうときであり、長年聴き続けてきたアルバムが、こういうときに崩れそうになった気持ちを「グッと」支えてくれる。今日はこれが心を支えてくれた。
音楽だけじゃなくて、映画が心の支えになることもあるし、小説が支えになることもあるし、あるいは、配偶者が心の支えになることもおおい。
そこでふと思ったのである。今はSNSの時代で、無名の一個人がいきなり世間の袋叩きにされることもある。そうやって今の今も、日本のどこかでじっと袋叩きに耐えている人がいるのだろうなと。
そしてその人は、きっとなにかに支えられて今日一日をしのいでいるのだろうなあ・・などと考えた。その支えが、音楽なのか、友だちなのか、クルマなのか、酒なのかはわからないけど、自分の足で立てない時は、何かに支えられて立っているはずだ。
心の支えと楽しみのちがい
さて、ここまで、心の支えの例として、音楽、映画、小説、家族、友だち、クルマ、酒などなどと挙げてきたが、これらはふだんなら
と呼ばれるものである。音楽は、よゆうがあるときには楽しみなのだが、足元がふらついている時には心の支えに変わる。ならば「心の支えと楽しみの違いは何なのだろう?」ということをぼんやり考えた。
同じものが支えになったり、楽しみになったりすることもあるけど、世の中には、支えにはなるが楽しみにはならないものもあるし、逆に楽しみにはなるけれど、心の支えにはならないものもある。
「支えにはなるが楽しみにはならないもの」と言えば、命を支えてくれているほとんどのものは、これに当てはまる。空気、水、日光、睡眠、栄養、などなど。寝るのが楽しみという人も中にはいるけれど、水も空気も支えにはなるが楽しみにはならない。
一方、楽しみにはなるが弱った心を支えてくれないものもある。ジャズならなんでも心の支えになるわけではなくて、上記のアルバムはいわば「癒し系」なので弱ったときに心を支えてくれる。とんがった系のアルバムは、元気な時の楽しみにはなっても、弱った心を支えてはくれない。
「ハレとケ」でいうなら、楽しみが「ハレ」で、支えが「ケ」だと言ってもいいだろう。元気な時に向き合うものがハレの音楽であり、倒れそうなときに体重を預けられるのがケの音楽だ。
楽しみとは「意識的に向き合うもの」であり、心の支えは、「習慣化されたものになぐさめられる」ようなことだと言ってもいいだろう。
心が弱っている時には、たとえ好きなミュージシャンでも、新曲になぐさめられたりはしない。慰めてくれるのは長年聞きなれた曲であり、新しいものにぶつかりたくなるのは元気な時である。
心の支えは「財産」に近い
さて、新しいものは世の中にいくらでもあるけど、慣れ親しむには時間がかかる。
今、ここでジャズに入門することは誰にでもできるが、心の支えになるほど聞きこもうと思ったら時間がかかる。人間関係もおなじで、今日新しい友達を作るのはカンタンだが、心の支えになるような友だちを得るには長い付き合いが必要だ。
そして、心の支えとは、いわば「家具の足」みたいなものなので、1本より2本。2本より3本のほうが安定するのである。つまり、心の支えの貯えをたくさん持っているほうが、いざというときにしのぎやすい。
心の支えが「酒しかない」よりは、友だちも支えになるし、音楽も支えになるし、筋トレも支えになるし、ドライブも支えになるし、といった風にいろんな支えがあったほうがいざというときに心強いのだ。
そして、支えを作るには時間がかかるので、いってみれば長年貯えた「財産」みたいなものである。人間関係だけでなく、なれしたしんだ音楽も、映画も、小説も、マンガも心を支えてくれる大事な人生の貯金なのだ。
ゲームという不思議なもの
さて、以上が前置きで、ここからが本論だったのだが、すでに長々と書いてしまったので、これから本論に入るという無茶はやめておく(笑)。
いずれまったく形を変えて書くことになると思うけど、さわりだけ書いておくと、以上、さまざまな心の支えの例を挙げたのだが、意識的に伏せていたものが1つあってそれが
なのである。ビデオゲーム。ゲームの中にも癒し系ゲームはあるけど、基本的にゲームとは
なので、折れそうになった心を支えてくれたりはしない。駆け引きは元気な時にやるものであって、心が折れそうなときに駆け引きを楽しむことなどできない。
にもかかわらず、ゲームにおける「駆け引きの思考」は習慣化できるので、心が折れそうな時にも僕はゲームをやることができる。このようにゲームの「ゲーム性」というものには、ハレでもケでもない、ちょっと不思議なところがあるのだ。
まとめ
ゲームにおける「駆け引きの思考」とは、
ための思考ということなのだが、このあたりいきなり心支えの話から急旋回してしまったので、ついてこれない人もいるだろうから今日はこの辺りでやめておきたい。
今日のところは、
ということで話を終えたい。
付け足し
ちょっとだけ先を書いておくと、
ゲーム的な思考は心の支えにはならないが、脳の習慣にすることはできて、そしてこの駆け引きの思考がお金を儲けるには決定的に大事だということ。
さらに先まで書いておくと、日本人はゲーム性がちょっと足りない民族なので、今じり貧になっており、スシロー問題などが起こっているのではないか、ということにもなる。
さらに先までぶっ飛ばすなら、芥川賞と直木賞の根本的なちがいはゲーム性にあるのではないかというあたりまでいくのだが、いくらなんでもこれは飛ばしすぎである。
スロースタートで、途中からいきなりトップギアに上げてしまってどーもすいませんでした。この話はまた稿を改めて。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?