大人も安心して遊びたい
純粋な遊びの時間
このnoteでは、仕事の話をしないことにしている。
以前は、ぽつぽつと仕事にまつわる話題なども出していた時期があったけど、いまはそういうのをかぎりなくゼロに近づけている。
昨日の記事は仕事について語っているので、もちろん、仕事のヒントにしてもらっていいのだが、ぼくはあの文章を通じて仕事はしていない。「検索と仕事」というアイデアで遊んだだけだ。
ならば、仕事のことを考えていないかというと正反対で、目が覚めている間はずーっと「じぶんの仕事」のことを考えている。
でも、一切仕事のことを考えない時間が少しくらいあってもいいだろうと思ってこういうものを書いている。純粋な遊びの時間である。いいかえれば、仕事と遊びをきっちり分けて考えているということだ。
遊びが失われつつある
今はなんでも仕事にできる時代だ。
ゲームをすることが仕事になったりするし、どんな遊びも仕事にできる。
なんだかよさげだが、これは逆に言うと「純粋な遊びが失われつつある」ということでもある。
仕事の本質が「評価されること」にあるとすれば、評価を一切無視して遊ぶことができなくなっているということでもある。
働かざるもの食うべからず
以前『精神』(2008)という精神科を描いたドキュメンタリー映画を紹介したことがあるが、あれを仕事という面から考えてみよう。
まず監督とプロデューサーは、カメラを回すことではたらいているので、彼らにとってこの映画は仕事である。そして、診療所で働いている人たちも、山本先生をはじめとして医療という仕事をしている人たちだ。
しかし、そこにかよってくる患者さんたちは、仕事をしていない。生きることがあまりにたいへんで、働くどころではない。
しかし、彼らは「働かざるもの食うべからず」という偏見にも苦しめられている。今の日本は、「生きること」と「働くこと」が同じ大きさの社会になっているので、この人たちはただ生きるということを許されない。
生きることに苦しむとともに、働いていないことに苦しむ二重苦に状態に置かれている。
宇宙は仕事論におさまるのか
ぼくにとって「ものを考える」ということは純粋に遊びだ。「考えるという仕事」をやっているわけではない。
この遊びを遊びとして成立させるには、それとはしっかり切り離して、仕事もやらねばならないのはもちろんである。
ところが、今どきのネットでは、「仕事について語ることを仕事にしている」人たちが、世界を丸ごと仕事論にしてしまっている。
その手の人たちは、あのピラミッドですら、神秘的な存在、ナゾの対象ではなく、作った人たちの労働としての仕事論に還元してしまう。
あきれるほどのプロテスタンティズム(勤勉さ)だ。
大人も安心して遊びたい
こどもが道ばたの石ころで遊ぶとき、その石は誰かの仕事ではないので、安心して遊べる。
またぼくが怪談を語るときも、その心霊現象はだれの仕事でもないので、安心して語れる。ネッシーの存在も誰かの仕事ではないので、安心して語れる。
これとおなじように僕にとっては、映画を見ることも遊びなのだが、映画はそれを作った誰かがいる以上、その人たちにとっては仕事である。なので、映画を語ろうとすると、どうしても、映画を仕事として語るひとたちの勤勉さに抵触してしまう。
それを避けて映画で遊ぶには、なるべく「仕事として成立していない映画」、つまりネッシーみたいな映画を選んで、おもしろがるのがいいのだろう。そういう映画なら、だれに検閲されることもなく「安心して」遊べる。
こうして遊びを検閲しない姿勢は、この「遊びのnote」をつづけるかぎりは持ち続けていたいものだ。
ところで、これ↓なんかは、遊べる映画だと思う。どう見ても仕事として成立してないので、どう語ろうと自由だ。こんな作品ばかりを作り続けた「駄作の天才」ラリー・ブキャナンはある意味、本当にすごい人だと思う。
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