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日の丸のありがたみは親のありがたみ

今日は「国家主義者の気持ちもわかる」という記事です。ひごろナショナリズムを否定するようなことばかり書いているので埋め合わせをしたい。

さて、ぼくは先日「国家主義はダメだ」みたいな記事を書いた。またTwitterでも「サッカーであろうとナショナリズムは苦手」みたいなことも書いたので、みんなが喜んでいるところに水を差すイヤな野郎である。

また過去には、「"日本"とか"韓国"とかいう名前(=旗)のために血を流すのはバカげている」みたいなことも書いたおぼえがあるし、

日本と中国と韓国が4年ごとに国名を入れ替えれば戦争なんか起こらない

と、簡単そうに書いたこともある。

「戦場で旗を守るために命を投げ出すのはバカげている。ぼくならさっさと旗を放り出して逃げる」と書いたこともあったような気がする。

こういう風に軽々しく書いていると、3流ナショナリストの人々からは「バカ野郎!」とののしられるだろうし、1流ナショナリストの人々からは「なんもわかっとらんガキだなぁ。しょせん薄っぺらいリベラルだ」と静かに思われているだろう。

でも、ホントはぼくだって旗を大事に思う人々の気持ちがわからないわけではない。国名、そして旗というのは単なる名前でも旗でもなくて、それらはシンボルであり、象徴である。

親のありがたみ

の象徴だ。日の丸とは親のありがたみの象徴だ。

親が育ててくれなければいまの自分はなかった。そして親だって、親の親(祖父母)が育ててくれなければ存在していなかったし、祖父母もまたしかりで、親の親の親が育ててくれたからこそ生きていられたのであり、そうやって親から子へ、親から子へとうけつがれてきた「いのちのリレー」は、一回一回のバトンの受け渡しにたいへんな苦労と愛情がこもっている。

そういう生命のバトンが古代から連綿と受け継がれてきた結果として、自分がいまこうして生きていられるというありがたみ。

さらにいうと、こういう無数のいのちのリレーの集積によって国家というのものがようやく成り立ち、いまぼくらが豊かに平和にくらせているのだという感謝。そういう思いが日の丸に込められているのだから、旗を死守したいという気持ちもわかるし、「日本と韓国と中国の国名を入れ替えるだと?」

バカも休み休み言え。けしからーん

となるのもわかる。ぼくだって毎朝、親の遺影に線香をあげているのだから、わからないわけがない。でも、そのうえで、

親のほんとうの気持ち

ってものも想像してみてはどうだろうか。

仮に、あなたがパンを焼くのが好きだったとしよう。ならばあなたの親は、あなたに、好きなだけパンを焼けるような人生を送ってほしいと願っているのではないか。

たとえ自分は太平洋戦争で苦しんだとしても、「子どもにはそんな思いはさせたくない。好きなように生きてほしい」と思っているはずだ。決して、

パン焼きなんかほうっておけ。そんなことよりオレのかたきを討ってくれ!オレの代わりにアメリカにリベンジしてくれ!

というオレオレした願いを託している親はいないだろう。

もちろん、「オレのなれなかったプロ野球選手になってくれ!」と、自分の夢を子供に押し付けている人もいにはいるが、少数である。

ちなみにスピ系的にいうと、こういう親は子どもに呪いをかけている。「呪い」と書くとおどろおどろしい力のように思いがちだけど、呪いをかけるということの本質は、

こころが成熟していない

ということに尽きる。親が子供に対して

おまえの人生などどうでもいい。そんなことより先祖代々の土地を守ってくれ!家名を守ってくれ!世間様に恥ずかしくないように○○家をもりたててくれ!平家の仇を討ってくれ!

みたいな余裕のない恩讐を残して死んだ場合に呪いがかかってしまうわけだけど、たいていの親はそうは思っていない。ほとんどの親は子どもに対して

死んだ者のことはソコソコでいいから、それより自分の幸せを大事にして生きてほしい。草葉の陰から応援しているよ。

と思っているはずなのだ。

あなたの親だけではない。みんなの親がそうであり、親の親もそうであり、親の親の親もそうであり、そうやって連綿と受け継がれてきた親心のおかげで国はここまで豊かになった。

そうやって、先祖みんなが「あなたの人生の幸せ」を静かに見守り、ひそかに応援してくれている。ぼくが神社に行くとときどき感じるのは、そういう親心の究極というか、やさしさのかたまりみたいなものである。

そういう風に積み重なった究極の親心が、あなたに向かって

パン焼きなどほうっておいて、神国を守るために死ね!

などとおもうわけがない。

本当の親心

プロ野球選手が「活躍して親をラクにさせたい」とよく言う。

故・野村克也氏も

「親孝行な選手は出世する」

と言っている。そして、ノムさん自身、出世してからは「母にはできるだけ贅沢してほしい」とせっせと仕送りをしていたそうだ。しかしじっさいには

「お前がいくら仕送りをくれても、一番最初に送ってくれた1000円に勝る大金はないよ」

とお母さんにいわれたことがあるそうで、

母の晩年、気づいた。私が送った仕送りは、全て使わず、貯金してあった。私がいつか金に困った時のために、と言っていた。

のだそうだ。親心というのがこういうものだとすれば、その集積物としての「親心のカタマリ」であるこの国は、あなたが

旗のために死ぬ

ことをよろこぶのだろうか。むしろ、好きなパンを焼いている姿を喜んでくれるのではないか。

ほどほどの国家主義はいいものだ。しかし「過剰な国家主義」は、親の本当の気持ちをわかっていない子どもの仕送りのようなものである。


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