見出し画像

オヤジねはんでまつ

感情というのはまるっきりガソリンである。ガソリン「のようなもの」ではなくてモロにガソリンだ。

最初に点火するのは、ちょっとした正義の火花かもしれない。だがいったんボーボーと燃え広がり始めたら正義もクソもない。山火事のようにすべてを飲み込んで燃え上がるだけである。

それがわかっている人にはあらためてこんなことを言う必要はないし、わかっていない人にはいってもむだだ。

オヤジねはんでまつ

というのと同じくらい無意味である。ところで、この↑フレーズはこないだ『トリック新作スペシャル3』(2014)というドラマを見ていたら出てきたのでひさしぶりに思い出したんだけど、意味わからんでしょ?わかった人は何人くらいいるんだろう。はたして2014年のドラマでこれが笑いとして通用するのだろうか。しかし、意味不明という意味では「感情がガソリンだ」といっても「おやじ涅槃でまつ」といっても大して変わらない。

ところで、人の死を笑いに変えるとは下品なやつだといわれるかもしれないが、「時間がたったのでこれくらいは勘弁してよ」とテレ朝はおもっているんじゃないでしょうか。

さて、感情が燃え上がるのは、ふだんの生活の中でチョロチョロとためこんでいるガソリンをだれかにむかってボーボー燃やしているだけである。しかし「炎上」とはよく言ったもので、いたずらにガソリンを燃やしているだけだということをみな直感的にはわかってるのだろうな。

ちなみにぼく自身は、19歳から33歳くらいまでのあいだ四六時中自分の心の動きをかんさつして暮らしていたのでそういうことは敏感にわかる。仏教では「内観」とよぶらしいが、とくに仏教的な教えを受けたわけではなく、自分で勝手にやっていた。こういう風に書くとまるでキチガイみたいだがほんとにキチガイなので四六時中「内観」をやっていた。ただし、外から見れば何かを考えこんでいる人にしかみえなかっただろうけど。

ある日、急に区切りがついて内観は終了したわけだが、あそこで一区切りがつかなければ死ぬまでやっていただろう。なぜかというとほかに自分にやれることを思いつかなかったからであり、外側の世界を変えても自分が変わらないなら無意味と思っていたので、ひたすら自分の感情を観察していた。

いまは自分の感情を観察するのは、なにかがあったときだけに限定しているが、それはもうさんざんやって卒業したからである。だいたいわかるからである。このことはnoteで一度も書いていないし、10年以上誰にもしゃべっていないんだけど、けっして秘密にしていたわけではなくて単に忘れていた。

というわけで、14年くらいひたすら自分の感情を観察していた1変人として言わせてもらうなら、だれかを攻撃したいと思ったとき、最初は「かくかくしかじかでこうだから攻撃すべきだ!」って熱くなるでしょう?しかし、「かくかく」から「すべきだ!」のあたりまでで、すでに最初の正義はどっかへ行っているのである。あとはたんに職場やら家庭やら電車の中やらで溜めこんだストレス・ガソリンに火をつけているだけだ。

そういう自分の感情のうごきを「おもしろ~」とながめていれられる人ばかりならこの世には争いも戦争も起こらない。しかし現実にはみさかいなくボーボー燃え上がっており、それに対しては

おやじねはんでまつ

としかいえない。日本だけではない。世界中が

おやじねはんでまつ

としか言えない状態にある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?