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歴史はポイントが設置されているレールのようなもの

「わたしが世の中を操縦しています」などという人はどこにもいない。影響力の大きい小さいはあるにせよ、大小のいろんな力があわさって動くのが世の中というものであり、最終的にはみな流されていくしかない。

たとえば、西南戦争を西郷隆盛がしかけたと考えるひとはいないだろう。いろんな力や偶然がかさなって、起こらざるを得ないことになり、西郷はその動きに乗った。いったん乗ってしまえば、あとはレールの上を「自害」という終点までいくしかないことをわかっていたとおもう。

かれを担いだ連中も、敵対した連中も、だれひとりとして「おれが仕掛けた」とは思っていない。みな、さからいようのない時代のながれにのせられていった。

歴史のながれはウィジャ盤ににている。こっくりさんの起源になった西洋の降霊術である。ゆびをのせている人たちは誰ひとりじぶんがコマを動かしているとは思わない。みな指を乗せているだけで、コマはかってに動く。

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しかし、けっきょくは全員のちからが合わさって動いているのである。にんげんのカラダは意思とは無関係にたえず動いており、心理学ではこれをイデオモーター(観念運動)とよぶ。ひとりひとりの観念運動があわさった合力にぜんいんが引きずられていく。社会や金融市場も、参加者全員の力に全員が引きずられていくところはこれとそっくりだ。

つまり、社会の動き、歴史の動きというのは、自動車のようにハンドルであやつれるものではなく、参加者全員がのった列車がレールの上を走っているようなものだということである。

社会という列車は、一見じわじわと良い方向へむかったり、または悪い方向へ向かっていくようにみえるが、実際はあらかじめ決まったレールのまがりぐあいに沿って動いているだけである。たとえ運転手でも、右にカーブしているレールの上で左にカーブを切ることはできない。

ただし、線路には要所要所にポイント(分岐器)というものが備わっていて、そこを通過するときだけは、右に行くか左に行くかを決められる。歴史の動きもおなじで、ところどころで分岐点を通過する。「ふりかえればあそこが分岐点だった」ということはよくある。

ポイントがすべてである。そこを通過してしまえば、あとは小さなことからコツコツとがんばろうががんばるまいが関係なく、次の駅まで進んでいくだけだ。

ぼくも、この時代という列車にのっている一人の乗客として、ポイントを通過するたびに気が気ではない。SARS-CoV-2のポイントはすでに通過してしまった。自然災害と財政破綻のポイントもすでに背後に去った。しかし、世界的な戦争と気候変動についてはまだこの先にやれることがのこっている。

ぼくじしんが無力であるにもかかわらず、分岐器が近づいてくるとコツコツとやっていられない気分になる。「フォロワー数達成!」とか「億り人になって逃げきる」と言っている人が幸せなのか不幸なのか見ていてよくわからない。ただし、火星ににげきるというなら話はべつだ。

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