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多くのものごとは、見方によってはコメディ

大抵のものごとは、見方によってはコメディにみえる

・・というのは当たり前といえば当たり前なんだけど、もしかすると日本にはこの感覚がちょっと足りない人が多いのかもしれない。ややエラそうだが、最近そう感じさせられることがいろいろあったので、ちょっと書いてみよう。

ところで、「コメディ」というのは古い歴史を持つ言葉で、ウルさい人もいるのは承知している。以下は、あくまで一シロウトとしての

コメディについての常識的な考え

にもとづいているということをあらかじめお断りしておきます。

暗い時代

ぼくは007映画が好きで、中でもロジャー・ムーアが主演した時期の作品が好きである。

具体的には1973年の『死ぬのは奴らだ』から1985年の『美しき獲物たち』までで、ボンド映画のノリが軽かった時期にあたる。

ところが、ボンド好きのあいだではこの時期は「ダメな時期」というのが定評になっている。かれらがお勧めするのは主に、『007 ロシアより愛をこめて』(1963)だとか『女王陛下の007』(1969)といった1960年代に作られたシリアスなスパイアクションだ。

1960年代というと暗い時代である。

東西冷戦が深刻化し、キューバ危機で核戦争の寸前まで行き、ケネディやキング牧師が暗殺され、ベトナム戦争がドロ沼化して、世界各地で学生運動が起こった。日本でも東大安田講堂にたてこもった左翼学生と機動隊が衝突している。

この時期に作られたボンド映画も、シリアスな感触のものが多い。

明るい時代へ

しかし1970年代の後半から1980年代にかけて、アメリカとソ連のあいだでは「こんなことでは世界がほろびてしまう・・」という共通認識が生じて、デタント(緊張緩和)ということが盛んに言われ、平和ムードに包まれた。

2度の世界大戦を経て、人類も少し成長したのではないか?
今度こそ世界に平和が訪れるのではないか?

という明るい未来の予感をみんなが持ち始めていた。

そういう時期にボンド役に就任したのがロジャー・ムーアである。彼自身が上品でコミカルな演技を持ち味としていたこともあり、ボンド映画もどんどん軽くなっていく。

駄作のように言われるこの時代のボンド映画をぼくが好きなのは、もちろん自分が映画を見始めた青春時代に当たっているのもあるだろう。しかし、今客観的に見ても、この時期の作品群はノリが軽くて何度でも楽しめる良さがある。

そもそもボンド自身がスーパーマンみたいな男であり、非現実的な空気をただよわせているので、シリアスといっても限界があるのだ。

初期の『ゴールドフィンガー』にしてもそう。最後に時限爆弾をギリギリのところで止めるシーンがあるんだけど、ふつうこういうときにはラスト1秒で止まるのがお決まりである。

しかしこのシーンでは爆発7秒前の「007」で止まる。こういうお遊びがボンド映画の良い所だと思えるし、それをさらにノリノリでやったのがムーアの時代だった。

ボンド映画はコメディ

ところが、日本人のアマゾンレビューを概観していると、この時期のボンド映画はおおむね

おバカ映画

という風に評されている。この「おバカ映画」という言葉に前々から違和感がある。

多くのレビュアーが『黄金銃を持つ男』(1974)あたりからバカっぽさが深まり、『ムーンレイカー』(1979)で頂点を迎えたように言うが、そのわりにはキライではなさそうだ。

表向きは『女王陛下の007』のシリアスさをほめたたえつつも、ウラで『ムーンレイカー』を楽しんでいるらしい。そういう自分への言い訳として

おバカ映画だけどおもしろい・・

みたいに言っている。

ぼくも『ムーンレイカー』が大好きで何度見ても飽きない。おバカ映画だけど・・という言い訳をしないのは、「低俗なスパイスリラー」ではなくて「質の良いコメディ」だと思っているからだ。

『パシフィック・リム』もコメディ

似たようなことは『パシフィック・リム』(2013)というロボット&怪獣映画を見た時にも言えて、アマゾンレビューを見ると、多くの人がこの作品を

おバカ映画だけど好き

という風に言い訳しつつ、ほめている。

ぼくもこの映画はおもしろくて好きなんだけど、そもそもコメディ映画だと思っているので「おバカ映画だけど・・」という言い訳はしない。

コメディのない社会

イイ感じのコメディを見て、おもしろいとおもった時に素直におもしろいといえず、「おバカ映画だけど・・」という前置きが求められるのは、社会にそういう風潮があるからではないか。

この手の作品を手放しでほめると、

キャラが不自然だ・・
こういう展開はおかしい・・
人間の描き方が浅い・・

みたいなことを大真面目で言われ、それにくらべて『ウルトラセブン』が持ち上げられる。

ウルトラマンもコメディ

日本では、マンガをストーリー漫画とギャグ漫画に分けてしまう風潮があるけど、映画もドラマも同じく

シリアス/お笑い

に2分する風潮があって、『ウルトラマン』みたいなものは、無条件で「シリアス」の側にいれられてしまう。しかし、よく考えてみれば、

体長50メートルの大男が、地球を守るためにヘンな色のスーツを着て怪獣と相撲を取る

というのは、キューバ危機のようなシリアスさとはちがい、引いて見れば、けっこう笑えるお話なのだ。

『ウルトラマン』や『仮面ライダー』には、デタント(緊張緩和)の時期ならではの平和ボケしたおもしろさがある。それをいちいち「おバカ映画だけど・・」と言い訳しなければならないのはどうなんだろう。

コメディは「シリアス」でも「お笑い」でもない

コメディというと一般には喜劇のことだと思われている。喜劇というとお笑いなので、そう考えればコメディは「お笑い」という1ジャンルにおさまってしまうけど、コメディは(すくなくとも西洋では)悲劇と対立する概念で、お笑いよりも広い。

ダンテの『神曲』も、英語で言うと Divine Comedyなので、直訳すれば「神のコメディ」になるけど、「神のお笑い」ではない。

ロボコップもコメディ

かつて『ロボコップ』(1987)という映画があってサイボーグ化した警官が悪と戦う話だった。主演のピーター・ウェラーが、なんかのインタビューで

Come on!  It's a comedy.(おいおい、これはコメディだよ)

といっていたのを覚えているが、見る人が見ればわかるように、あれはブラックコメディである。

しかし、パッと見は「宇宙刑事ギャバン」みたいなコスチュームなので、日本の男の子なら無条件に「シリアス」の側にいれてしまうのだろう。なので、ああいった作品をほめようとすると「おバカ映画だけど・・」という言い訳が必要になるのだと思う。

『激突!殺人拳』もコメディ

千葉真一主演の『激突! 殺人拳』シリーズも、ブルース・リーのネコのような動きにならってクセのある動きを取り入れ、やりすぎて表情が気持ち悪くなっているところが見どころだ。その気持ち悪さを関根勤さんがうまいことモノマネしていておもしろい。

ただそうすると、「殺人拳」v.s. 「関根さんのマネ」は、「シリアス」v.s.「お笑い」という図式にハマってしまうんだけど、あの映画が海外でカルト化しているのは、作品自体がコメディとみなされているからだと思う。

『13日の金曜日』もコメディ

このコメディの感覚は、日本人でもホラー映画好きならわかっている人が多いらしくて、よくできたホラー映画のアマゾンレビューには

これはコメディだよ

という意見がちらほらと入る。ぼくも『13日の金曜日』シリーズはコメディだと思っている。

ジェイソンなんて、アタマをカチ割られても、湖に沈められても蘇ってくるので、そもそも人間じゃない。

彼に殺される連中も、「難病に苦しんでいる子供たち」だったら後味が悪いが、「キャンプ場でセックスのことしか考えていない若者たち」なので、安心して見ていられる。

作る側もコメディのノリでやっているのがわかるので楽しめるのである。

コメディは大人の余裕

つまり、「一見シリアスそうな物語も、見方を変えればコメディになる」という大人の余裕がコメディを生むわけで、そういう余裕をもって、もういちどトップ画像の我らがヒーロー、宇宙刑事ギャバンをながめてほしい。言わんとすることは伝わると思う。

しかし、日本社会では、仮面ライダーをシリアスに信じた男の子が、そのまんま大人になってしまった。かれらがコメディの感覚をもっていないからこそ、社会が息苦しくなっているのかもしれない。つまりは、われわれがまじめすぎるのがイカンってことですね。


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