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社会を元気にするには、多様性を犠牲にするしかないのだろうか

お祭りさわぎは基本的に苦手だ。しかし社会に必要なものだということもわかる。

お祭りは社会に活気を与えるし、ガス抜きの役割も果たしている。しかし、うかれすぎると集団主義に陥りがちなのも事実で、そのあたりを苦手に感じる。

集団主義とは「個人を犠牲にして全体を優先する考え方」で、江戸時代の武士が、藩のために腹を切ったりしたのが集団主義だ。今回、野球をめぐるさわぎを見ていてあらためてお祭り騒ぎの功罪について考えさせられた。

WBCに迷惑していた人たち

ぼく自身は、もともと

野球を見る50代男性

というこっぱずかしいグループ(=デリカシーの足らない多数派)に属しているので、今回のWBCには一切不快感を抱いていない。試合を見ていても

野球ってホントいいよなあ

というくらいのことしか思わなかった。ただし社会がお祭り騒ぎに浮かれていた一方で迷惑していた人達もいるらしい。

ぼくはプライムビデオで静かに見ていたので地上波でどういう風に報道されていたのかは知らないのだが、なんとなく想像はつく。朝から晩まで「侍、侍、侍」という感じだったのだろう。

Twitterには「#野球ハラスメント」というハッシュタグも出ていたので、いちおう覗いてみた。それほど深刻なハラスメントに悩んでいる人の投稿は見当たらなかったが、「浮かれている人たちにイラついている」というくらいのことなのだろう。

ただし、冒頭に書いた通りぼくもお祭り騒ぎは苦手なので、そのイラつきはわかるのである。わかるけど、一方で、自分のように寝転がってスマホで静かに見ている人間ばかりだと、

やっぱ・・世の中的にはまずいだろう

ということも思うのだ。今の日本はとにかく活気が足りないので、他の番組を削ってでもWBCで盛り上げようとしているテレビ局が悪いとは一概に思えない。とはいえ、

世間が盛り上がっているのだから水を差すなよ

という集団主義の空気みたいなのも嫌だな。

「社会の元気」V.S.「多様性」

そこで思うんだけど、そもそも「社会の元気」と多様性とは相いれないものなのだろうか。

「社会の元気」というのは多くの人が1つの方向へ向けて一丸となって突き進むような状態でなければ生まれない。しかし、そういう状態では、その方向へ行きたくないマイノリティは

世間が盛り上がっているのだからだまってろ

というふうに抑圧されてしまう。結局、そういうことなのだろうか。社会を元気にするには、少数派を黙らせるしかないのだろうか。

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