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知らなくていいテクノロジーと知らなければ始まらないテクノロジーのちがい

いまや新しいテクノロジーやサービスが次々に出てくる時代になったが、その中には知らなくても特に困らないものと、知らなければ始まらないものがあると思える。

とはいえ、なんにしてもやってみないとどちらかわからないので、まずは「やる一択」なんだけど、そのうえで、2つに分かれるような気がするのである。

ここ数年の僕の体験から言えば、noteはやってよかったけど、Twitterはやらなくてもよかったな、という気がしている。

やってよかったnote

noteのなにがよかったかというと

さまざまな制約の中で書く

という得がたい経験ができたことだ。さまざまな制約とは、「定期的に書く」、「長くなりすぎてはダメ」、「読み切りにしなければならない」、「あまり込み入ったことは言えない」、「マニアックなことは言えない」、「エモく仕上げなければいけない」などなどである。

たとえば、ある記事を書いていて長くなり、1000文字にも2000文字にもおさめることができなくなりそうな場合どうするか。

noteはだれがどこからアクセスしてくるかわからない。

例えば、西武ライオンズのスキャンダルを書いた記事は、どうやら西武ファンのGoogleニュースアプリにいきなり表示されたみたいである。

「こいつ何者だ?」と思ってクリックした人に、いきなり6000文字を読んでもらうわけにもいかないし、かといって、第一章、第二章・・と日を改めて書くわけにもいかない。はじめてここに来た人が、サクッと読んで、サクッと納得できるものにしなければならない。

そうすると、大きめのアイデアをまずは3つに切りわけてから、各々を1話読み切りのごとく仕立て直す、みたいな作業が必要になってくるのだが、これは思考の本質とは無関係のテクニックである。

だが、こういうことを日々やったおかげで、他人の書いた文章を読んでも、筆者の苦労というか、さまざまな工夫が透けて見えるようになった。「このくだりはあとで入れたな・・」みたいなこともわかるようになってきたのでそれはそれでいい経験だった。

Twitterはどうでもよかった

一方、Twitterをやってよかったことはあまりない。140字という制約は、制約というより内容のないことをつぶやくためのい訳みたいなものだし、リツイートだの、リプライだの、フォローだのといった仕組みも何ほどのこともなかった。とはいえ、やってみなければそのことはわからないので、とりあえずはやらなければ仕方がない。

やって見なければ始まらない

やってみなければわからないのは、新しく出てきたサービスや、テクノロジーやら全般に当てはまる。

仮想通貨は買ってみなければわからないし、スマホもいじってみなければわからない。VRもやってみなければわからないし、音声認識も使って見なければわからない。

それはそうなのだが、こう次々と新しいものが出てくると、とりあえずやってみるだけで大幅に時間を食われる。

ロシアとウクライナだってあいかわらず殺し合いをしているし、ウイルスはどうなるやらわからないし、気候変動は激しくなるし、AIは発達するしで、しかも、親が認知症になって1分ごとに同じことを聞いてくる、みたいな状況で、

一発当ててやろう

などというヤマっ気を出して次々に繰り出されるサービスやらテクノロジーをいちいち相手にしていられない。しかもその大半は、Twitterみたいにやってもやらなくてもいいようなものだ。

やらなくてもいいこととやらなければ始まらないことの違い

ここまで考えてみて、やってもやらなくていいことと、やらなければ始まらないこととは2つに大別できるような気もしてきた(まちがっているかもしれません)

まず、「知らなければ仲間はずれになるだけ」、「知らないことで恥をかくだけ」、といったようことは知っても知らなくても別にどちらでもいい。

一方で、知ると知らないとでは世界の見え方が変わるようなことは、やってみなければならない。

たとえば、Twitterの「リツイートがどうたら」いうことはTwitter村のジャーゴンにすぎないので、仲間外れになることを恐れなければ不必要な知識であって、知らなければ知らないでなんの問題もない。

ただし、TwitterでもInstagramでもYouTubeでもnoteでもなんでもいいのだが、

たえまなく発信する作業

は、いちど体験しておくと世界の見え方が変わるので、やっておいたほうがいいだろう。

電波の海の中で暮らす

おなじく、スマホも「超小型のコンピュータ」という意味にかぎれば、それほどたいしたものではないので、やってもやらなくていい。スマホを使わなければアプリという概念はわからないが、そんなことはスマホ界隈特有のジャーゴンみたいなものなので、知らなくてバカにされることを恐れなければべつにいいのだ。

しかし「世界中に建てられた基地局の電波の海の中で暮らす」という体験は、味わっている人とそうでない人で世界の見え方が変わってくるほどの大きなことだと思う。

この体験は、光ファイバー網とノートPCだけでは得られない世界であり、おおげさにいえば「テクノロジーによる集合的なテレパシー」みたいなものなので、やるとやらないでは大違いだ。

それを体験するにはスマホが必要だし、スマホではなくても最低限SIMカードを装着したなんらかの超小型デバイスを常用してみる必要がある。

ブロックチェーンとAI

ではブロックチェーンが世界の見え方を変えるほどのものなのか、というのはいまのところぼくにはわからない。すべてを変えてしまうほどのものかもしれないし、過渡的なテクノロジーにすぎないような気もする。

ただし、AIは、「人とは何か、知性とは何か、技術とは何か、」という根本のところを揺さぶってくる気がするので、良きにつけ悪しきにつけ避けることのできないものだと思える。

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