サッカーボールで野球はできない ―「ことば」の大切さ
チームスポーツ = おおむね球技
ボクシングにも柔道にも、個人戦の積み上げとしての団体戦はあるが、団体でないとできないわけではない。
団体でないとできないタイプのスポーツは球技に限られ、そして、団体でなければできない特徴は、パスを回さなければならない点にある
味方同士でつないでいくには、体と体のぶつかり合いだけでは成り立たない。あいだになにかが入らなければならず、それがボールだ。
球技で最も大事なのはボールの質
ぼくらは、「才能」とか「能力」というとすぐに各プレイヤーの攻撃力や防御力を考えてしまうけど、球技においてもっとも大事なのは
である。簡単に言うと「サッカーボールで野球はできない」ということだが、ボールの大きさと質は、競技のルールそのものを変えてしまうほど決定的に重要である。
日本のプロ野球では、2011年から2013年にボールの飛び方(反発係数)がわずかに変更されたことで、ゲーム内容が変わって大きな問題になった。それほど決定的なのである。
実社会におけるボールは「ことば」
各選手の能力が同じでも、ボールが変わればゲームは変わってしまうのは、実社会も同じだ。
社会という人生ゲームにおいて、競技を成り立たせているボールにあたるものが、ことばである。人は味方同士でことばのパスをつないだり、敵にことばのシュートをしたりして人生ゲームを繰り広げていく。
そして、サッカーボールで野球をやれないように、ことばの質を変えると人生ゲームが様変わりしてしまう。ことばの質は、どんな個人の才能よりも社会の様相を変える大きな力だ。
ことばが荒れれば社会も荒れる。
ということで、乱雑なことばを使いながら、丁寧な生活を送ることはできないし、すくなくともぼく自身は、他人を他人と思わないような言葉づかいをする人で賢い人に出会ったことがない。
ならば丁寧にすればいいかというと、ことばに活気がなくなれば社会にも活気がなくなるので、さじ加減がむずかしいところだ。
球技と人生ゲームの異なる点
ただし、人生ゲームには、球技と決定的に異なる点がある。
スポーツにおいて、ボールの質を決めるのは各協会のエライ人なのだが、社会でことばを使う場合、その質は各プレイヤーがすこしずつ変えていける。さらに、各人の投げることばの質に人となりが表れるので、人の発する言葉は、その人自身でもある。
ここが、すごく大事なところで、英語で売り込みやプレゼンテーションを「ピッチ(投球)」というのだが、ふたたび野球に例えるなら、
というふしぎな関係にある。同じく、飛んできたことばを打ち返す人は
ということだし、打ち返されたことばをキャッチする野手も
ということになる。だれもがプレイヤーであると同時に、そのあいだを行き交うボールでもある、というふしぎな関係に置かれている。
本当の才能とは?
一般に
とか
などと言う場合、その人のプレイヤーとしてのロジックやすばやさに目が向いてしまうが、これは才能というものへの表面的な見方に過ぎない。
プレイヤーとしての才能をいくら磨いても、しょせんゲームのルールの範囲内での優秀さにすぎない。本当に才能のある人は、自分の投げることばの大きさや質を意識的に変えることでゲームのルール自体を変えようと試みている。
スポーツにたとえるなら、野球のボールをすこしずつサッカーボールに変えようとしていることに近いが、これがホントに賢い人というものだとぼくは思う。
わかりやすい例
さきほど「人を人と思わないような言葉づかいをする人で賢い人に出会ったことがない」と書いたけど、たとえば
など言いすてて平気な人は、いくらするどいフォームでことばを放っているようでも、投げていることばがウ〇コボールなので、
ということになるわけである。ことばというのはそういう仕組みになっているのだ。
そのことに気づいて、ウン〇ボールをスルーし、丁寧なことば投げ返すことで社会のゲームが荒れないように試みている人が本当にすごい人だ。
・・というようなことを、今朝目覚める直前に夢の中で考えていたらしい。メモに残っていたのでまとめてみました。
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